小説

□ひとりぼっち幸福論
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ひとりぼっち幸福論














「ちょっとちょっと、聞いてよ寿々、どうしよう、俺、俺……」
「何? 今度はアロンさんがどうしたの」
「何でわかるの? 寿々って超能力者?」
「洵がそんなに慌てるのなんてどうせアロンさん絡みでしょ。で、どうしたの?」
「大変なんだよ……アロンさんが急病で活動休止だって……。どうしよう……大丈夫かな……ツアー中断までするなんて相当だよ……」
 どんよりと肩を落とす洵に寿々は隠しもせずに溜息をついた。今からバイトだというのにこの様子では今日も寿々の負担は十割増だ。
「どうしようも何も、洵にはどうしようもないじゃん。しっかりしてよ」
「ずっと調子悪かったのかな……無理してたんだろうな……心配だ……お見舞い行きたい……」
「よけい悪化させるだけからやめといたほうがいいよ」
 背を丸めてうじうじと呟き続ける後ろ姿を思い切り蹴り飛ばしたい衝動にかられながら、寿々はさっさと制服に着替え、店に出た。









  ・・・








 息することに気づくこと。自分の呼吸を意識すること。生きていることに気づくこと。
 意識して息をしようとすると、何故だか息が苦しくなる。呼吸のリズムが狂って、空気をうまく吸えていないような気がして、無理に深く息を吸って、余計に胸が苦しくなる。
 自分がいかに無意識に生きているかに気づくと、不意に生きるのが苦しくなる。当たり前にできていたことにふと疑問を感じると、そのことが途端に怖くなる。気づかなければ何とも思わずに生きていったであろう世界が、その瞬間に突然色を変える。
 自分が生きていることに気づかなければ、死ぬことを思うこともなかっただろうし、生き方に悩んで立ち止まることもきっとなかったのだろうと思う。
――死に方について悩めるのも、人間の特権かな
 硝子の向こうで佇む大鷲の剥製を見上げる。物言わぬ剥製は硝子の眼球で天井に描かれた偽物の空を見つめていた。
 生きている時にはこんな自然博物館なんて自分から足を向けることはなかった。子どもの時に社会科見学で連れて来られた時以来だ。たまたま通りがかって暇つぶしに立ち寄ってみたが、来てみると案外面白いものだ。
 宙に吊るされた鯨の骨格標本の下で立ち止まり、首をこてんと傾けてそれを見上げた。
 巨大な土色の骨格。均等に配置され鳥籠のような胸郭を形作る肋骨、少しずつ形を変え首から尾へ曲線を描いて連なる椎骨、一見無意味に見える凹凸にすら意味のある複雑な形の頭蓋骨。
 『生き物』というものの奇跡を実感する。至高の芸術作品のように計算し尽くされた美しい骨格。これが長い命の営みの中で生物が作り上げたもの。
 骨も、肉も、内臓も、脳も、それから心も、途方もない年月をかけて生み出されてきたのだ。
 自分のこの姿も。
 正体のわからない自分の体をふと見下ろした。
「……お兄ちゃん何笑ってるの?」
「ん?」
 子どもの声がして横を見ると、小学生くらいの女の子が悠多の隣で鯨の骨格標本を見上げていた。
「別に何もないよ」
「嘘つき。絶対笑ってたって。ひとりで笑って、気持ち悪ー」
「……うっさいな。俺なんか見てないで化石でも見てきなよ」
「変なのー」
 舌打ちする悠多に悪態をついて、子どもは離れた所にいた家族らしき親子連れの方に走っていった。
 なんだか死んでから、気安く話しかけられることが増えた。
昔はどちらかというと親が『見ちゃいけません』と子どもから遠ざけるような態度を取られることのほうが多かったように思う。派手な外見のせいだろうが、道を歩くたびに白い目で見られるのは日常茶飯事だったから、こんな親子連れで溢れかえるような所に来る気はとても起きなかった。そもそも大して興味もなかったし、異質なものを見る目に曝されるのが面倒だった。
 今のほうがある意味異質であるはずなのに、今のほうがむしろ空気のように世界に馴染んでいるように思える。
『事実、空気みたいなものなんだろう』
 老人ならそう言いそうだと、無愛想な声の調子まで頭の中で再生してしまって苦い気持ちになった。
あの老人は相変わらず愛想の欠片もなく、無口で、出無精で、悠多が話しかけなければほとんど自分から話しかけようとしない。悠多の他愛ない話に付き合ってくれることもあるが、返ってくるのはいつも素っ気ない言葉ばかりだ。




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