小説

□徒夢刻み
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徒夢刻み











 漆黒の闇の中に声が響く。無数に響く高低様々な絶叫。ひと際大きな金切り声がその名を呼ぶ。まるで呪うように、縋るように、崇めるように。
 それはゆっくりと振り返る。
 傷ついた黒蝶の翅のような衣服を身に纏い、氷のような白皙を濃い化粧で彩った悪魔。
 人の姿をした悪魔か。悪魔の姿をした人間か。
 それは、ステージから無数の人間を睥睨する。途端に声は収まり、水を打ったような静寂と、張りつめた糸のような緊張感が暗黒の閉鎖空間を満たした。
 それは異様な空気感だった。窒息してしまいそうな圧力と、恍惚としてしまいそうな誘惑。
「――舞え」
 その声を合図に、音が爆発した。
 掲げられた白い腕に呼応するかのように縦横無尽に光が飛び交う。激しい音と光と声が目まぐるしく絡まり合い、客席を巻きこみ、空間を轟々と揺らす。人間たちは自らその波になり、または流され、あるいは抗い、世界の一部となる。
「――まだ! まだだ!」
 自ら荒れ狂いながら、それは絶叫する。まだ世界は完成しない。完成にはほど遠い。これは作られた偽物。本物ではない。窒息してしまいそう、恍惚としてしまいそう、それは所詮『してしまいそう』でしかない。心すら奪い去ってしまうような魅惑の力にはまだ足りない。
 一部では駄目だ。全てが欲しい。全てを寄越せ。この時間だけお前らの全てを捧げて見せろ。
 悪魔が仰け反りひと際高く咆えた。汗の流れる白い喉、首の左側には、黒い星の刺青。
――それはまるで、
 音を奏でながら、ふと冷めた頭で悪魔の後ろ姿を眺めた。他のメンバーより一歩下がった所で黙々とギターを掻き鳴らしながら、客席に目をやる。
 遥か彼方まで広がっているかのような闇の中で蠢く、人間、人間、人間、人間、人間、人間。
「――お前の人間を処刑しろ」 





  ・・・





 その音が聞こえることに気づいたのは、一体いつのことだっただろうか。
 鍵盤を叩く音、心臓の鼓動、誰かの歌声、動物や虫の声、木々の葉擦れ、時計の歯車の音、どんな音とも似ているようで、どの音とも似ていない。
 その音はきっと、自分以外の誰にも聞こえない。
 特定の周波数の音を規則正しく奏でる楽器では表現できない、音ではない音。空気を揺らして鼓膜を震わせる代わりに、自分のどこかを震わせる。その震える部分が、いわゆる心というものなのかもしれない。だとしたらきっと、心というのは脳や心臓に限局してある塊ではなく、形を持たずに全身に散りばめられた粒子のようなものなのだと思う。
 さらさらと何かに呼応して全身で響く音楽。
 人は、いや、生き物全ては音をもつ。意味もわからない、音階にもなっていない、けれどおぼろげな形と流れを持ったそれは、終わらない一篇の物語を紡ぐ一文字一文字のようだ。
 世界は音で溢れている。鼓膜を震わす雑音と、生き物たちが奏でる無数の音。世界は無数の音楽の多重奏で、いつだって耳を塞ぎたくなるくらいにうるさい。
 時貴が作る曲は、この音の断片を切り出し、音として整え、音楽と言えるまでに翻訳したようなものだ。時貴にとって音楽は自分の中から生みだすものではなく、自分が出会ったあらゆる存在から譲り受けるものだ。
 だが、こういったことを真面目に他人に話したことはない。何せそのイメージはあまりに抽象的で夢想的で、他人にとっては理解しがたい非現実的なものだろうから。偉そうに妄想じみたことを語って、『こいつは何かわけのわからないことを言っている』と後ろ指をさされるのは御免こうむりたい。
 そういえば、若かりしころの時貴を変人呼ばわりして大笑いしてくれたのはあいつだったか。この音のことを語ったのではなくて、もっと別の、とっくに忘れてしまう程度の下らない内容だった気がするけれど、どうも時貴の感覚というのは普通とは大分ずれているらしい。あの悠多に言われるのだから相当だ。
 自分では至って常識人だと思ってるのだが。




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