小説

□暮の雨音
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    この歌を愛したなら
    この歌はお前のもの











暮の雨音














 目に見えるもの、手で触れられるもの、この世界に存在するもの、世界を支配する法則、原子、素粒子、それよりも小さなまだ見ぬ何か。あるいは宇宙よりも大きな何か。
流れゆく時間も、その中で繰り広げられる生命の営みも、生物たちの命の連鎖も、途方もなく巨大で精密な機械のように複雑に絡み合う人間の社会も、自分が死んだ後も何も変わらないで続いていく。もしかしたら少しは変わるかもしれないけれど、ここは自分一人が欠けたくらいで崩れるような世界ではないことは、自分の存在がそう大きいものではないことは、遅かれ早かれ誰しもが気づき、少し切ない気持ちになりながら、それでも受け入れて生きていくものなのだろう。
「じーさん、そんなもん拾ってきてどーすんの」
 悠多は優雅な高級長毛種の猫のようにソファにぐたりと身を預けたまま、老人の手に抱かれた奇妙なものを指差した。年季の入った古い布と木材と金属と塗料と、それから重ねた年月分の生活の匂い。湿っぽいような埃っぽいような、太陽の下で干した布団の匂いを錆させたような古い柔らかな匂い。これはただの悠多のイメージで、嗅覚ではそんな匂いなど本当は感じていないのかもしれないけれど。
 綺麗に色の抜けた白髪と豊かな髭を蓄えた老人は、悠多を一瞥しただけで、ふん、と鼻を鳴らした。むっと顔を顰める悠多にも気づかないふりをして、老人は悠多が寝ているソファの向かいのソファにどっかりと腰を下ろす。
 悠多はのそりと起き上がり、それを覗きこんだ。
 それは赤黒く、ぐったりとして、潰さない程度にくしゃりと握られた柔らかいボールのような、脆そうでいて微妙な弾力を持った肉の塊だった。彩色される前の化学物質の塊みたいな消しゴムの人形を思い出した。
「どこで拾ってきたの」
「公衆トイレ」
「きたねーな」
 まるで廃棄すべきゴミのようにうち捨てられていた赤ん坊。当然、生まれてすぐこうして捨てられた赤ん坊は一日として生きられるはずがない。
 自分が世界を認識することができなければ、自分にとって世界は存在しないのと同じことだ。何も知らないこの肉塊は、世界において何物でもない。それでも、この世界の中でこの肉塊を拾った老人にとっては保護するべき何者かであり、悠多にとっても、老人が拾って来た不可解な肉の塊以上の意味のある存在だった。意味を見出すのは他者だ。なぜなら、赤ん坊はまだ何も考えられないから。
「馬鹿な奴だな」
 ふとそう口にしていた。奇妙なものだ。何も考えられないのなら賢いも愚かもないはずなのに、馬鹿な赤ん坊だ、と。
 悠多は何とも形容しがたい微妙な気持ちで、赤ん坊に囁いた。
「お前は人間になるはずだったんだよー」
「とっくに人間だ、お前と同じ」
「俺とは違う」
「そうかな」
 老人はしゃがれた声で呟いた。皺くちゃの指で頬を擽ると、赤ん坊は安心したように表情を緩めた。




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