小説

□透明なこころ
2ページ/8ページ

 


――青い視界の真ん中で、白く丸いものがゆらゆらと揺れている。透明で、青味を帯びてぼんやりとして、触れたら消えてしまいそうな白く柔らかな何かのように、膨らんでは縮み、歪んでは戻り、空月が水面の向こうで震えている。
漆黒の水底に沈みながら、何故だか不思議と体がふわふわとして軽いのに気づいた。そう、水中で浮力を感じるのと同じ感じがもう一つある。水の中に浮かぶ肉体という器の中で、感覚が透明な液体に浮かんで揺られているような。
「……なんだ、また喧嘩したのか」
 そこを出てから、もう十日以上経っていた。もしかしたらもう死んでいるのかもしれないとすら思っていた。けれどそれとは裏腹に、そいつが死ぬ姿を想像することすらできない自分もいた。
 ずぶ濡れの姿で扉を開けると、ねっとりと肺に絡む芳香の混じった生々しい匂いが溢れだした。「ジエン」呼びかけたシュラに届いたのは、「おかえり」でも「遅かったな」でもなく、そんな言葉だった。今日この瞬間に扉が開くことを予想でもしていたかのような、当たり前の声で。
「喧嘩じゃない、雨だ」
「あ? いつの間に雨が降ったんだ?」
 お気に入りの綺麗な小瓶を手の中で弄びながら、くつくつと喉を鳴らしてそいつは笑った。その小瓶にどんな思い入れがあるのかは教えてくれなかったが、ジエンはもう随分昔からその小瓶を肌身離さず持ち歩いている。浅くゆっくりとした呼吸は苦しそうなのに、意地の悪い笑い方は心の底から楽しそうだ。あまりに変わり果てた姿で、それでもジエンは昔と変わらない調子でシュラをからかう。
 ここに帰ってくる前に、汚れた体と服を貯水槽で洗い流してきた。この匂いの中だから僅かな血臭などわからないだろうし、黒い服だから染みもあまり目立たないと思う。
昔はその貯水槽の周りでよく遊んでいて、水の中に突き落とされてびしょ濡れになって帰ってきたこともあった。喧嘩して負ける度に泣いて、この男に馬鹿にされたものだ。
いつまで経っても、自分がこんな状態になってもシュラを相変わらず子ども扱いして小馬鹿にして。もういい加減、子どもの頃の情けない記憶なんか忘れてしまえばいいのに。
――嘘
本当は、いつまでも憶えていてほしい。
足を投げ出して床に座り込むジエンを壁に張りつけるようにして増殖した植物は、最後に見た時よりも心なしか萎れているように見えた。もしかしたら植物が弱って、ジエンの体から消えてくれるのではないか、なんて淡い希望を抱こうとしてみても、そんなはずはないのだと心の中で冷静に悟っている。
――あんたのために人を殺すことができなかった
 そう言って謝ることができたらいっそ楽なのか。けれど、自分を救うために人を殺すことなどジエンは許さないだろうし、体が自由であれば何十発か殴られることだろう。だからずっと言えなかった。それでも何もしないではいられなかった。
 赤を憎むなと教えられて育った。何故かは知らないが、ジエンは事あるごとにシュラにそう言い聞かせてきた。シュラが憎んだのは巫女の方だ。赤のことを憎んだことはない。けれど、所詮味方ではなかった。恨みはなくても、自分にとって大切なものと天秤にかけたら容易く犠牲にしてしまえる程度の存在だった。
本当は今すぐにでもまた赤の領域に戻って血を手に入れなければと思う。けれど今は、あの少女のことを思って躊躇ってしまう。薬がなければジエンもイオも、流行病に罹った他の生存者も死んでしまうとわかっていても。彼らが死んでもいいと思っているわけではない。死んでもらっては困る。でも、もうここを離れたくない。
どうしたらいいのか、わからない。





.
次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ