小説

□あなたの声がする
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 雨が降っていた。
 立ち込める水煙に曇った視界は狭く暗く、橋の柵の向こうは何も見えない。纏った黒い外套は水で重く湿っている。じっとりと濡れた前髪を掻きあげ、クロナは周囲を見渡した。
随分と低い場所だ。周囲に佇む塔の影になって、空月の光もあまり届かない。人二人が並んで歩ける程度の細い橋を、ゼロに連れられて歩いて行く。
『狭間に住む者たち』だけが知る、忘れられた塔を繋ぐ橋。













「逃げなかったんだな」
 夜、『隠れ家』に現れたゼロは、相変わらずの表情に乏しい顔でそんなことを言った。
「どういうこと?」
 クロナは不審げに首を傾げる。
赤の領域に入るための唯一の頼りのなのに、逃げるはずがないのに。
「僕が信用できる人間である保証がどこにある?」
 いくらでも逃げる時間はあるように放っておいたのに、とゼロは独り言のように言った。
「お前、何か企んでいるのか?」
 タンタラムが威嚇するように唸った。
「僕は何も企んでいないよ。ただ、君たちにとってあまりよくない情報を知っている」
「何?」
「言っていいのか?」
 問いかけるクロナに、ゼロは一瞬だけ試すような視線を向けてきた。
「教えて」
銀色の美しい髪の隙間から覗く赤い瞳が、静かにクロナを見据える。
「墓守のクロナという女は、先日侵入した何者かによって殺され、もう空中庭園にはいない。そしてその何者かを見つけて連れてこいと巫女からの命令が出ている。そう聞いた」
 それでも行く? ゼロは真っ直ぐにクロナを見つめて言った。













 
 今進むのは帰り道か未知の道か。
 迷っても、もう進む以外ないのだと、後戻りする道はないのだと、自分でも気づかない間に悟っていたのだと思う。
「シュラは、ジエンさんが赤の領域からさらってきた子供だって、少しばかり有名だった。噂だから、本人たちの口から聞いたことはないけど」
「シュラは、赤の領域で生まれたってこと?」
「さあ。ただ、誰の子かも知られてなかったし、突然前触れもなく連れてきたから、何か訳ありだろうって噂されてた」
 ジエンは、この『狭間』で生まれた。『鉱山』の発掘に参加しながら、『狭間』で赤と青との橋渡し的な役割も担っていたらしい。どこかから子供だったシュラを連れて来てからは、緩衝地帯から離れた所に住まいを移し、『鉱山』や『狭間』には時々顔を出す程度になったが、それでも『狭間』での古株とあって顔は広く信頼もされていた。
 赤は巫女に守られ従順に暮らしているが、その一方で狭い百塔の中での資源不足という悩みも抱えていた。『鉱山』が閉鎖されて新たな資源の供給は見込めず、青の領域のような大規模な工業施設もなく、限られたエネルギー施設と元々あった資源を頼りに、細々と生活を営んでいくしかなかった。
 『鉱山』から運び出されたものや『兵器工場』のような工場で造られたものの一部は、この『狭間』を通して赤の領域に運ばれていたそうだ。そのようにやり取りされていたものの中に、墓地に運ばれてきていた灰も含まれていた。
 あの夜色の外套を着た男の人も、『狭間に住む者たち』のひとりだったのだろう。




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