小説

□終わり間近のはじまり
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 見たことのないものがあった。
 それはとても小さく、頼りなく、儚げな幻のようだった。
 クロナの白金色の髪の毛よりもさらに細く繊細な糸で編み上げたような、つやつやとして網目も見えないほど滑らかな布を丁寧に丸く折り重ねたような、手のひらに軽く収まるほどの白い何か。どことなく水っぽく筋が薄く透き通って見える。触れればほろりと溶けてしまいそうな弱弱しく薄い一枚一枚が、微かな風に揺られて微かに淡い清純な香りを放つ。その白い何かは、床に積もった砂の山の上に突き立った細い深緑の真っ直ぐな棒の上に捧げられるように載って、夜明けとも日暮れともつかない曖昧で透明な光の中で、涙のような雫を抱いていた。
それは、クロナのよく知るものによく似ていた。
クロナが生まれ育った空中庭園、ママが守ってきたこの世界唯一の墓地。灰になって箱に収められ墓地に運ばれてくる亡骸を、物心ついたときから毎日のように見てきた。無数に並ぶ棺が一つずつ閉じていくのを見ながら、いずれこの白い石の列が全て閉じられる日が来るのだろうかと漠然と考えていた。死ぬ人の数に制限があるのなら、全ての墓石が閉じるのは、世界が終る時なのだろう。
視界を埋め尽くすように整然と突き立つ無数の墓標、その一本。その白いものは、そんな風に見えた。
ここはどこだろう。
そこは、クロナが知るその場所ではなかった。いつもの家、いつもの墓地、それがない。古びたコンクリート造りの素っ気ない四角い部屋は知らない匂いで満ちていた。
頭がぼんやりとして鈍く痛む。体も重くだるい。起き上がるのが酷く億劫だ。だが、目の下にあるのは剥き出しの床。どうして床なんかで寝ているのだろう。硬く冷たい床に腕を立てようとして、目に映った右腕に、クロナは悲鳴をあげた。
「何これ」
 そして聞こえた自分のものではない声に、もう一度悲鳴をあげた。
「え、何、どういうこと?」
 特別可愛らしい声をしていたわけではないけれど、いくらなんでもこんなに低くはなかったはずだ。喉に手を当てて、その柔らかい皮膚に走った鋭い痛みに顔を顰めた。
 勢いよく飛び起きて自分の体を見下ろす。慣れ親しんだ自分の体がそこになかった。
 筋張ってごつごつした長い指に、鉤爪のような突起が手首から二の腕にかけて縦に走る異形の黒い腕。それは右腕だけで、左腕はクロナ本来のものと同じような青白い肌の色をして、突起もなく滑らかだ。
 左半身だけ肋骨に沿うような赤い隆起と薬品で爛れたような赤黒い模様がのたくっている。硬く骨ばって平坦な造りだが、クロナ自身の痩せっぽちな体より余程しっかりしていて、身長も高くて、
「……男だ」
 眩暈がした。これは夢か。何かの悪い冗談か。ペタペタと棘のない左手で剥き出しの肌を触ってみるが、確かにその感触は本物だった。平らな胸のあたりに手のひらを置いて、はたと動きを止める。溜息をついてゆっくりと手を離した。
 誰かこの状況の説明をしてくれないものだろうかと周囲を見回してみても、この部屋には誰もいない。窓の外には空が広がっているばかりで、風の音すら聞こえない。
「どうしよう」
 呟いた独り言の声が聞き慣れた自分のものでなくて泣きたくなる。
 再びその体を見下ろす。左半身の肋骨に沿った模様を辿ると、背中を覆うように右肩甲骨まで繋がって、そこから片方だけの赤黒い翼が生えていた。血溜まりを五指で引きずったような翼。特徴的なそれを持つ人物を、クロナは見たことがある気がした。





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