小説

□二つの心
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ばたばたと痛々しい大粒の水滴の音が鼓膜を絶え間なく揺らす。麻痺した耳はもう雨音と彼の吐息しか拾えない。激しい風になぶられる彼の髪を目で辿る。今まで交わした約束の数を表すような大量の紙屑が風に吹き散らされていく。ずっと、それらを失くさないように手を伸ばし守っていた彼は、今は窓枠に肘をついて手の甲に顎を載せ、文字と水滴の嵐の中で目を閉じている。
かつて『地上一万メートルの楽園』と呼ばれた場所は、不規則で歪で鋭角的な版画となって空に影を刻み込む。針の山のような塔とは対照的に丸く柔らかな空月の巨大な姿が、町の輪郭を膜のように覆っている。私が生まれる前、生まれてから、変わらず繰り返されてきたこの風景の営みを、今特別に美しく思えた。
きっと私が恐れていたのは、この風景が失われることよりも、私たちが取り返しのつかないくらいに変わってしまうことのほうだった。実際は、私たち自身も気づかないうちに、こうして景色が異なって見えるようになる程度には変わってしまったのだけれど。
誰かのために自分を否定しなくても救えるものはあるのだと知らなかった。我慢して自分の首を絞めても誰も見てはくれないのだと教えてあげたかった。ここは思っていたより寂しい世界ではなかったから、色々なことを願ってしまったのだと思う。例えばここがこんな世界でなかったら、だとか。私たちが出会わなかったら、だとか。もしも彼が美しかったら、だとか。
私たちが共有しようとしてきたものが一つ二つと掬んだ両手の指の隙間から落ちていくような気がしていた。肌を伝う無数の粒子の感触は、流れる液体となって歪な染みを服の生地に描いた。この穢れこそが私たちの共有してきたものなのか。平坦に渦巻く水面の波紋が小さくなりやがて無くなる。
本当は何もいらなかった。私たちが私たちであり続けられる世界でさえあれば。
 濡れた手のひらで私は彼の頬に触れる。
天から絶え間なく降り注ぐ雨がこの部屋中を満たしていた。悲しげで息苦しくなる、この世界の欠片に埋もれて、彼は堅く目を閉じている。





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