小説

□白糸の檻
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しかし何とか無事に家に連れ帰ったはいいものの、彼は内心頭を抱えていた。
これはどう考えても彼の手に余る状況だ。子どもは何を聞いても口を閉ざすばかりで答えない。かといって、警察に突き出す気はないと約束してしまった手前、警察に丸投げしてしまうわけにもいかない。
頼れそうなのは家族か、学校か、行政か。しかし肝心の身元はわからない。
「お前、名前は? 家、どこだ?」
 子どもは答えない。
「お前、喋れないのか?」
 伏せた睫毛が少し震えた。
「帰りたくないのか?」
 迷うように視線が揺れる。
「帰れないのか?」
 子どもは、おそるおそる、といった呈で、小さく頷いた。
「誰か、迎えに来てくれないのか?」
 その目から、じわりと涙がこぼれた。
 滲んだ涙はみるみるうちに大きな雫となり、ぼたりぼたりと大粒の涙が溢れて、床に丸い水滴が落ちる。
 突然泣き出した子どもに、彼は狼狽して、どうしようどうしようと一人焦った。何度拭ってやっても涙は次から次に溢れて、口から溢れるのは言葉ではなく震える嗚咽ばかり。子ども自身も、自分ではどうしたらいいかわからないようで、涙を流しながら困惑したような顔をしていた。
 その時、静かだった空間にかすかな音が響きだした。
 大切に精巧に造られた端整な人形のような繊細な体から溢れ出す音。それはとてもとても静かな音だった。
 その顔を見ていられなくなって、小さな身体を強引に抱き寄せた。抵抗するように強張った肩をぽんぽんと叩き、なるべく優しく抱きしめていると、ふいに力が抜けて、子どもがその体を彼の胸の中に預けてきた。腕の中で、痙攣するように呼吸が震えてくるのがわかった。
 肩の辺りが熱く濡れていく感触。子どもは何かが壊れてしまったかのようにぶるぶると震えながら激しく泣いた。溢れる音が鳴りやまない。心臓を掻き回すような悲痛な音、けれどそれは狂おしいほどに美しい音だった。
彼の腕の中で泣くじゃくる子どもが、やがて泣き疲れて眠るまで、ずっとずっと抱きしめていた。





その後、その子どもは彼の家に住みついた。
普段は影のように静かに部屋の隅にいて、けれどたまに壊れたように泣き出すこともあって、その度にぎこちなく宥めながら、一緒に暮らしていた。
一歩も外に出ようとせず、ほとんど言葉も発しない。話しかければ反応はするし、食事をすすめれば少しは食べる。けれど、生命力に乏しいというか、とにかく人間味を感じない。心配ではあったが、かといって無理に何かをさせようとも思わず、懐かない猫でも拾ったような気持ちでずっと過ごしていた。
おそらくこの子どもを探しているであろう人たちのことが気にはなったが、別に監禁しているわけでもないし、いつか寂しくなって家が恋しくなったら帰してやればいいだろうと楽観視していた。
子どもがいること自体は困らなかった。大して手もかからなかったし、自分以外の人間が家にいることも嫌ではなかった。
そんな生活もどうせいつかは終わるだろうから、今は適当に過ごしていようと思って、そんな「今」は何度も過ぎて。
結局その子どもは、今も彼のそばにいる。






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