小説

□白糸の檻
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 彼はしばし考え込んで、携帯電話を手に取った。
 しつこく呼び出し音が続き、十数回鳴った所でようやく干からびた掠れ声が応えた。
『……今何時だと思ってるんだ』
「悪い。あのな、俺、今日仕事行くの無理だ」
『は? 何だ、いきなり』
「パソコンとか、全部、壊れちまった」
『全部? どういうことだよ』
「あー、なんていうか」
 何故か、咄嗟に嘘が口をついて出た。
「なんか、猫が。拾った猫が、怯えて、暴れて、全部壊していった」
『はあ?』
「だから、今日、無理だから。悪い。後は頼んだ」
『おい、ふざけるな。ちょっと待て。おい、』
 切った。
 まだ遠くには行っていないだろう。土地勘のない場所で、家に帰ることもできず途方に暮れている姿が容易に想像できる。
 車の鍵を手に取り、家を出た。
 吐く息が白く視界を曇らせる。冬の早朝の空気は刺すように冷たい。
 しばらく家の周辺をうろうろと走り回って、ようやく行く宛てもなくとぼとぼと道を歩く子どもの姿を見つけた。ぶかぶかの服を小さな体で引きずるようにして、陰鬱に俯いて裸足のままアスファルトを歩く姿は、あまりに哀れだった。
 車を停めようとすると、彼の姿に気づいた子どもはまた身を翻して逃げ出した。
「おい、待てよ」
 慌てて車から降り、追いかける。追いかけられることが余計に恐怖心を煽るだろうことはわかっていたが、ここで見失ってはいけないと思った。
 普段の運動不足の体を叱咤して全速力で追いかける。弱った子どもはすぐに捕まった。今が人通りのない時間帯でよかった。傍から見たら完全に子どもを襲う不審者だ。
 腕を掴まれ、怯えきった顔をした子どもに罪悪感がこみあげる。意味を成さない悲鳴をあげて彼の手を振り払おうとする子どもに、どうしたものかと途方に暮れる。子どもの相手などしたことがないから、どう宥めればいいのかわからない。
 不安一色に塗り潰された顔は、無垢な小動物の純粋すぎる恐怖にも似た表情だ。ただ、どこかそれとは違う迷いが見える。恐怖は、決して彼に対する敵対心によるものではないように感じる。
逃げたいのか、縋りたいのか、判然としないアンバランスな表情はどうしようもなく苦しげだった。幼い顔に似つかわしくないその絶望の正体は、彼にはわからなかった。
「落ちつけって。頼むから」
 しゃがみこんで目線を合わせ、自分にできる限りの優しい声で何度も懇願すると、子どもは次第に大人しくなった。
「悪かったよ。驚かせて。大丈夫だよ、何も怖いことはしない。別に、怒ってないし。取って食いやしないし、警察に突き出しもしないし、金取ろうとかも思ってないから、だから」
 だから、何だろう。
 別にこの子どもをどうこうしようと思って連れ帰ったわけではない。ただ、あのまま放ってはおけないと思っただけで。
「おいで、風邪引くから。帰るぞ」
 帰るという言葉の違和感には気づいていたが、彼のその言葉に、子どもは黙ってついてきた。
 車に乗せた子どもは全くの無言で、人形のように寂しげな無表情でじっと自分の手元を見つめていた。
 家の扉を開けた先で、荒れ果てた惨状を目にした子どもは一瞬足を竦ませたが、優しく背中を押して促されて、おそるおそる部屋に上がってきた。ガラス片を踏んでしまわないようにと注意しながら、ひとまず安全地帯であるベッドの上に子どもを避難させた。




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