小説

□白糸の檻
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 この場合に呼ぶのは救急車だろうか警察だろうか。
 後部座席に横たわった子どもを眺めながら、煙草を一本銜えた。頭の中は眠い疲れた眠りたいでいっぱいで、悩むのは酷く億劫だった。ここで救急車でも警察でも呼ぼうものなら、事情説明やら付き添いやらで面倒なことに巻き込まれるに違いない。事情など何も知らないのに拘束されるのは御免こうむりたい。だがしかし、この子どもをここで見捨てるのはさすがに気が引ける。
 待てども待てども子どもが目を覚ます気配はない。
 年の頃なら十かそこらだろうか。虫の息のような微かな呼吸を繰り返し、固く目を閉じている。夜闇の中でもその顔は悲しくなるほどに白く、雨に濡れた髪から滑り落ちた雫が涙のように頬を伝っていた。
 自棄気味に煙草をぽいと投げ捨て、自分の上着を子どもにかけると、運転席に乗り込んだ。
 眠気で判断力が鈍っていたのだろう。ただその状況に悩むのが面倒になった。その先どうするのかは何も考えていなかった。
 自宅に辿りついても、子どもはやはり目を閉じたままだった。
 何はともあれこのずぶ濡れの状態をなんとかしようとタオルを持ってきて、濡れた服を着替えさせようと服に手をかけた。露わになった肌には、生々しい打撲跡や擦り傷に加えて、昨日今日つけられたものではないであろう無数の傷跡が一面に刻まれていた。
 ぐっしょりと重い服を投げ捨て、丁寧に体を拭いてやって、自分の服を適当に着せた子どもをベッドに寝かせ、冷えた体を毛布で包んだ。無意識だろうか、熱を求めるように子どもが彼の体温にすり寄ってきた。そこで自分の限界が来た。子どもの体を抱きこむようにしてベッドに倒れ込み、そのまま意識を手放した。








 
 耳元で小さな悲鳴が聞こえてぱちりと目を開けた。
はて自分は一人暮らしのはずだが幻聴だろうかと寝ぼけたまま視線を彷徨わせると、目の前に見覚えのない顔のアップがあった。こんな顔の知り合いがいただろうか。
 いまだぼんやりしている彼を、子どもは声にならない悲鳴を上げながら突き飛ばして跳ね起きた。
 その衝撃で、ようやく眠る前のことを思い出した。目覚めていきなり見知らぬ男と寝ていたら驚くのも無理はないだろう。どうやって宥めたらいいものか。子どもの顔は混乱しきっていて、怯えた目で必死に逃げ道を探していた。
 あ、と思った時には遅かった。
 覚束ない足どりでベッドから飛び降り逃げようとした子どもの体がふらついて、楽器やパソコンや機材が山と置かれた一角のど真ん中に突っ込んだ。
 罠を振り払いながら逃げる野生動物のように、手足にコードを絡ませながら後ずさり、机の上の物を盛大に引きずり落として、子どもは玄関から飛び出していった。
「…………えーと」
 怒るより、慌てるより、ただ茫然と無残に散らばった大切なモノたちの残骸を眺めた。
 のそのそとベッドから降りた足の裏にちくりと痛みが走る。割れたディスプレイから飛び散ったガラス片が足の裏に刺さって赤い血が滲んでいた。
 時計を見ると、眠ってからまだ二時間足らず。窓の外は暗く、夜はまだ明けていない。外は静かで、どうやら雨は止んだようだった。あれだけ頭を苛んでいた眠気は一瞬で醒めてしまった。
 部屋には子どもが着ていた服が残されたまま。財布も、携帯電話も、持ち物らしいものは何も持ち合せていなかった。混乱したまま逃げて行った子ども。この周辺の入り組んだ道。まだ世の中は寝静まっている時刻。駅まではいささか遠く、タクシーもほとんど通らない。そもそも金もない子どもひとりで公共交通機関を使うことはできない。




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