小説

□白糸の檻
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 その花を摘むと雨が降るという伝承をもつ花がある。それが何の花のことだったか忘れたが、「雨降り花」というその語感は何となく気に入っていた。
 視界を埋める雨の線。暗い地面に飛沫が弾けて、白く発光する靄のように足元を包む。
 夕方から降りだした雨は、冬にしては珍しく、深夜になっても勢いを弱めることなく激しく振り続けている。傘にかかる無数の雫の重力が腕にずっしりと重い。
 今日、誰かが雨降り花を手折ったのだろうか。その花が冬の花だったかは知らないけれど。
 花なんて柄にもないな、と寝不足でぼんやりとした頭で考える。もう丸一日以上寝ていない。頭がじんわりと痺れたような感覚があって、目の前に一枚薄い膜がかかっているように、世界がどこかよそよそしく見える。
 耳鳴りが、する。
 冷たい豪雨の中で、世界は静かだった。
 どんな轟音の中でも、美しい旋律の中でも、心は静かだった。それはあの音の中にあった唯一無二の静寂とは違う、ただ耳が痛いだけの沈黙だった。
 今にも横になって眠ってしまいたい疲労感を抱えながら、明日も午前中から予定が入っていることを呪う。暇な時は脳が溶けてしまいそうなほどに暇なのに、忙しい時は寝る暇もない。そう言えば今日は食事もろくにとっていない。
 考えれば考えるほど、自分の今の状況に腹が立ってきた。誰を非難するわけでもないが、ただ妙に苛立っていた。煙草を吸いたい、そう思ったが、あいにく両手は傘と重い鞄で塞がっていた。
 煙の代わりに冷たい湿気を深く吸いこんで溜息を吐いた。
 ようやくたどりついた、入り組んだ路地の中にある駐車場に、自分の車を見つける。飾り立てられた表側とは裏腹に、配管や汚れた壁が剥き出しになった建物の裏側に囲まれ、黴と苔と生活排水と雨が混ざった饐えた臭いがたちこめる。こんなうらぶれた場所に駐車場を作った人は、一体どんな人間が利用することを想定していたのだろうか。いつ来ても停まっている車はまばらで満車になっているのは見たことがない。
 そんな路地裏の隅に、ゴミのような塊があった。
 最初は、見た目通りただのゴミ袋だと思った。大方マナーの悪い誰かが置き捨てていったゴミだろうとさして気にもとめず、車に荷物を積み込んで帰ろうとした。
 それは本当に、ただの気紛れだった。
 運転席に乗り込む前に、ふと振り返った。喘ぐように点滅する街灯の頼りない光の中で、じっとその塊に目を凝らした。
 それは子どもだった。
 小さな体を球体のように丸めて蹲る子どもは本当に小さく弱弱しく見えた。どれだけここでじっとしていたのか、子どもはずぶ濡れで、ぴくりとも動かない。眠っているのか気を失っているのか死んでいるのかはわからないが、それがただならぬ状況であることは寝不足の頭でもわかった。
「おーい、大丈夫か」
 傘を差し掛け、声をかけてみても、反応はない。
 とりあえず、このまま雨に打たれたままにしておくのは可哀想だろうと、子どもを抱き上げ、一旦車の後部座席に運んだ。抱きあげられても子どもはやはり反応せず、ぐったりとしてされるがままの体はぞっとするほどに軽かった。体は濡れて冷え切っていたが、かすかに呼吸する音が聞こえて、少なくともこれが死体ではなかったことに安堵した。





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