小説

□絵空音
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「考えすぎだよ」
 時貴の考えを見透かしたように、柊がふっと笑った。
「そんなに見なくても、飛び降りたりしないから」
「……ああ」
 絶対に死なないと言われても、その言葉ほど信用できないものはない。
 死は、何もかもを反故にして、何の前触れもなく、全てを根こそぎ奪っていく。
「お前、あれからあいつに会った?」
 固有名詞は言わなかったが、誰のことかはすぐに伝わったようだった。
「ううん」
「そうか」
「トキは?」
「会ってない」
「そっか。また、会いたい?」
「……そうだな」
 あいつが自ら現れない限り、あいつが今どこでどうしているのか、知るすべはない。会いたいと言えば、会いたい。けれどもう二度と会えない気もしている。そもそも会えるはずのない相手だったのだから。
「なんか、本当に会ったのかわからなくなるな。夢だったみたいだ」
 あの一度きりの邂逅が、本当は幻想に過ぎなかったのではないかと思ってしまうほど、現実には何の痕跡も残っていない。
「俺も、そんな感じ」
 彼の残した言葉も、表情も、自分の頭の中の記憶以外何も残らなかった。
いや、唯一形あるものがあった。彼がかつてこの世に残し、柊に託した曲。彼が現れなかったらきっと二度とあの音をこの世に響かせることはなかった。
たしかに彼はいた。その言葉を聞いた。たしかにそこにあったのに、たしかにこの手に触れたのに、その記憶に自信を持てないのはどうしてだろう。
 波にさらわれた砂の城のようだ。それを作った記憶も、手に触れた砂の感触も残っているのに、自分以外にそれを見ていた人だっているのに、一度消えたらもうその存在を証明することはできない。
 隣で小さなくしゃみが聞こえた。
 細い体を両腕で抱えて、柊が体を震わせていた。
「寒い。もう限界だ。これ以上いたら死ぬ。帰るぞ」
「……うん」
 そういえば結局どうしていきなり海に来たがったのかと尋ねると、「デートがしたかったから」と曖昧にはぐらかされた。
 何年経っても、柊の本心はよくわからない。









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