小説

□絵空音
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 少し歩いて駐車場に着いて、柊を後部座席に寝かせようとすると、ずっとぐったり俯いて時貴に体重を預けていた柊が突然ぱっと顔を上げた。
「ねえ、海行こう」
「……はあ?」
 今までの不機嫌は何だったのか。酒のせいで情緒不安定にでもなっているのか。妙にその表情は明るく、酔っ払い特有の弛緩した感もなく、すっきりと冴えているように見える。しかし、その提案はいただけない。
「あほか。帰るぞ」
「嫌」
「明日も仕事だぞ」
「知ってる」
「……俺はお前ほど若くないんだよ」
「少しでいいから」
「勘弁してくれ」
 しばしこんな押し問答が続いた。この唐突な提案もそうだが、数度断って折れないのは珍しい。酒の力があるにしても、なぜそんなにこだわるのか。
「海に何かあるのか?」
「ううん。なんか、帰りたくなくて」
「じゃあ別に海じゃなくていいだろ。大体、何が悲しくて真冬の深夜に海までドライブするんだ。完全に心中コースじゃねえか」
「……なるほど。そう考えると心中って究極のデートなんだ」
 勝手に妙な納得の仕方をして、柊はいたずらっぽく微笑んだ。
「トキ、デートしよ」
「あほ」
 結局、時貴の方が折れた。
 海へと向かう道中、柊はただ静かにぼんやりと窓の外を見ていた。淡い茶色の髪が、街灯に照らされて赤や青に染まる。その横顔は凪いだ水面のように穏やかだ。あまりに静かなものだから、途中何度か眠ってしまったのではないかとその顔に目をやったが、柊は一度も眠っていなかった。闇の中で、醒めた双眸が後ろに流れて行く町の光を映していた。
 何度も欠伸を噛み殺しながら車を走らせて、ようやく海に着いた。
 天気の良い日には絶好のドライブコースとなる海沿いの道だが、今は真っ暗で何も見えない。切り立った崖の上の展望スポットに車を停めて外に出ると、身を切るような冷たい海風に肩を竦めた。
 今夜は風が強い。波の音がざわざわと暗黒を撫でるように響く。
「真っ暗だ」
「そりゃそうだろ」
 明かりといえば、申し訳程度にある街灯の乳白色の光だけだ。それも、眼下の海を照らすにはささやかすぎて役に立たない。月は半月。流れてゆく雲の隙間から現れてはまた隠れて、ぼんやりと空に浮かんでいるだけだ。
 柊は柵にもたれて、黒い海を見つめた。時貴もそれに倣い、柵に肘をつく。コンクリート製の柵はコート越しでもひやりと冷たかった。
 メランコリーを誘うシチュエーションだが、いかんせんあまりにも寒くて感傷的な気分に浸る余裕もない。やはりメランコリーと言えば秋だ。冬の寒さの中では、本能がまず生存することを訴えるから、センチメンタルを味わうどころではなくなる。つまり非常に寒い。
 そんなことをとりとめもなく考えて、がちがちと震え出しそうな寒さから意識を逸らそうとするも、上手くいかない。一秒ごとに体温を奪われていくのを感じながら、それでも、柊を置いて自分だけ車に戻ろうとは言い出せず、よく知った誰かを思わせるその横顔に目を向けた。
 気づけばもうあれから一年以上経つ。
 紆多との一件があってから、柊はどことなく表情が変わった。何かしらの心境の変化があったのは間違いない。以前より活動的になって、少し明るくなった。時貴を介さない人間関係も増えた。バンド活動も順調だ。ただその代わりに、柊はなんだか前より危なっかしくなった。
 単に自分の見えない所に行くことが増えたから心配の種も増えたというだけならいい。子どもでもあるまいし、あまり心配し過ぎても良くないのだろう。狭い世界に閉じこもっていた柊を外の世界に連れ出したのは時貴本人なのに、いざ柊が自分の手から離れていくと心配で仕方がないのは子離れできない駄目親みたいで情けなさすぎるではないかと自嘲してしまう。
 ただ、崖の上の展望台から真っ黒な冬の海を眺めている柊を見ていると、その隣から離れることはどうしてもできなかった。
 その姿は、否が応にも死というものを連想させる。


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