小説

□憶い歌
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「緊張してる?」
「少し」
「ま、いつも通りにやればいいよ」
「そのいつも通りってのが久しぶりだしさ。……それに、前と同じじゃ何にもならない」
 気軽に言う時貴に、柊は苦笑まじりに言った。
「なんでトキは緊張しないの?」
「してるに決まってるだろ。いつも手とか震えてる」
「嘘だ。その落ちつきは何?」
「んー……何だろ。緊張はするけど、まあ、どうなってもいいやっていう気持ちかね」
「どうなっても?」
「そうだなあ」
「もし自分が今日ここで死んでもいい?」
「……」
「ごめん」
 何らかの表情を浮かべることすら忘れて思わず絶句した時貴に、柊は目を伏せて謝罪した。
「だってあの人は、勝ち逃げしたみたいだ」
 そこにいない人をなじるように、小さな声で呟いた。
 時貴が何か言うのを待たず、柊は何かを振り切るように声を大きくした。
「俺は、死なない。逃げたくない。苦しくてボロボロになっても、誰からも求められなくなっても、やめない」
 自分に言い聞かせるように、訥々と柊が語る。
「戻る所なんかとっくに失くしてる。ここから逃げたら俺にはもう何にもない」
 堰を切ったように言葉がその唇から次から次に溢れ出す。こんなにこいつが饒舌になるのは初めてかもしれない。
「最初は、ステージにいるのは自分じゃない誰かなんだって思ってた。普通の気持ちじゃとても歌えなかった。こういうのは自分が自分じゃなくなってたからできるんだと思ってた。でも、 ステージにいるのは『アロン』だけど、俺なんだ。自分は自分なんだって、認めなきゃ駄目だったんだ。仮初の姿に頼ってたら、ずっと俺は居場所がないままなんだって、思ったんだ」
 自分になりたいんだ、小さな声で、自信なさげにぽつりと付け加えた。
「……そうか」
 いつもの癖で頭に手をやろうとして、セットが終わっていることを思い出して慌てて手をひっこめた。その代わりに、背中をぽん、と少し強めに叩く。
「……ただいまって言ったら、みんなおかえりって言ってくれるかな」
 ふと、迷子の子どものように不安げな声で、柊は鏡を見つめながら呟いた。











  ・・・










混雑した人ごみの中、高校生くらいの少年とぶつかりそうになって小さく謝りつつ避けた。そろそろ整列が始まる頃だ。皆そわそわと落ちつきがなく、待ちきれないといった興奮した面持ちで友人同士楽しそうにはしゃいでいる。
聞いたことがある声がした気がしてふりかえると、人ごみの向こうに寿々とあの男がいた。その後どうしているかと心配していたが、見たところ元気そうだ。興奮した男につられるように、時折笑顔を零している。
思わず足を止めてじっと見ていると、不意に寿々がこちらに気づいて驚いた顔をした。軽く手を振ると、はにかむような笑みを浮かべて会釈してくる。
「誰? 知り合い?」
「うん、前にちょっと」
「……ねえねえ、あの人murzの人に似てない?」
「誰それ?」
「知らない? 昔すごかったバンドの人で……」
続きが聞こえてくる前にそそくさと歩き去った。
会場の入り口にはツアータイトルを書いた大きな看板が掲げられていた。
ファンが待ちかねていたであろう、中止されたツアーファイナルの振替公演。そのタイトルの副題にはこうあった。
“Exit to Heaven”
この副題は本来のツアータイトルにはなかったものだ。
それを見た人たちは、そこに込められた思いをどう解釈するのだろう。
人の波にのって会場の中に足を踏み入れる。
入った瞬間に懐かしい思いがこみ上げた。少年の頃に心踊らされたアーティストのステージ、自分が紆多として立ったステージ、会場の規模や構造はそれぞれ異なってはいても、この空間に共通する空気感が切ないほどに胸を刺激する。
危うく泣きそうになる女々しい自分に苦笑いして、気を取り直すように視線を上げた。見えるのは人の頭と無人のステージ。薄暗いステージの中央にドラムセットが鎮座し、積み上げられたスピーカーやアンプが音を吐き出すのを今か今かと待っている。柵から向こう側にだけ嵐の前の静けさのような一種不気味な沈黙が漂っていた。



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