小説
□憶い歌
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あの女は、結局あれから現れなかった。自分の帰る場所を思い出したのか、それとも今もどこかをふらふらと彷徨い歩いているのか。謝らなければならないと思うのに、いくら待っても音沙汰はない。
どんなに鬱陶しくても苛立っても、憎みきれなかったのはどうしてだろう。いると面倒なのに、いざいなくなると寂しい。
あの母親も。
もうこの世にいないのだと思うと、胸の奥がじんと痛む。
自分が生まれた時、あの人は喜んだのだろうか。寿々が生まれたことを祝ったのだろうか。
きっと喜んだのだろうと思いたい。おめでとうと誰かに祝福されたのだと思いたい。
生まれてよかったと、どこかで言っておけばよかった。ずっとそんな機会はなかったし、まず思いつきもしなかった。
今ふと思ったのだ。自分はあの人のおかげで生まれてきたのだと、当たり前のことを。あの人がこの世に生まれてきたから、自分が今ここにいるのだと。
そのうち故郷に佇む墓石にでも言いに行こう。お供え物にバースデーケーキでも携えて。思い切り墓石にぶつけたら、今までのこと全て許せそうな気がする。
・・・
鏡の中にいる自分ではない何者かを睨みつけているように、椅子に座ったまま微動だにせず柊はじっとそれから目を逸らさない。
悪魔の化粧を施された顔はぞっとするほど美しく完成されている。血の気のない白い肌、真っ黒く縁取られた目、血を塗ったかのような真っ赤な唇。
拘束具のように纏わりつく衣装が露出した肌に刻まれた刺青を強調する。衣装は細い体躯に沿うように上半身を覆い、そこから翅を広げるように幾重もの薄い生地が垂れ下がっている。黒い生地は光の角度によって赤や青や金に光り、密集する黒い薔薇のように複雑に縫い合わされた立体的な飾りの傍らには、輝く銀の蝶が舞っている。
華やかにセットされ、背中の黒い翼にかかる髪は、白に近い金色だ。
つい昨日、柊は真っ黒だった髪を突然眩しいほどの白金色にして現れた。
「……どうかした?」
怪訝そうな顔をして柊が鏡越しに時貴を見た。淡い青の双眸が柔らかに緩む。その一瞬で、柊を取り巻いていた他者を寄せ付けない空気のようなものが呆気なく消えた。
「いや、何も。悪い、邪魔した」
謝ると、柊は何でもないことのように首を横に振った。
「別に、平気」
張りつめるほどとはいかないが、胸が重くなるような緊張感がずっと楽屋に漂っている。それに押しつぶされそうになっているのではないかと心配したが、思ったよりその表情は落ちついていた。
テーブルの上には手書きのメモが何枚か広げられている。
その中に、あの曲の歌詞があった。
あの曲の元の歌詞は時貴の手元には残っていなかった。歌詞どころか当時の曲のデータを探しても結局見つからず、パソコンに残されたメロディと自分の記憶を頼りにほとんど一から新しく作りなおした。
柊は傍の椅子にかけてあった羽織を手に取り、細かな襞が全面にあるゆったりとしたそれを羽織った。華美な衣装の上にその羽織を纏うだけで、妖艶さが一転しストイックな漆黒の造形ができあがる。
「寒い?」
「うん、ちょっと」
「風邪引くなよ」
「引かない」
まだ本調子には戻りきっていないという不安はある。ここでまた躓いたら、今度はもう誰も許してくれない。言葉にせずとも、そんな危機感が漠然とあるのは誰もが感じていた。
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