小説

□鈴鳴り揚羽
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「……殺されたって」
「一ヶ月くらい前の話よ」
「……」
 悠多は返す言葉を失った。しばしふたりの間に居心地の悪い沈黙が続いた。
「……その男のことは警察に届けようとは思わないの?」
 ようやく口を開いた悠多に、女は首を横に振った。
「……あんな男のことなんてもうどうでもいいのよ。それよりも自分の母親が殺されたって寿々に知られることが怖いの」
 確かにいくら駄目な親とはいえ死体で発見されればショックだろうが、いずれ知れることではないのか。
 自分の死を隠し(普通は死人が自ら自分の訃報を知らせにきたりはしないだろうが)、せめてもの助けにと、男を相手に金を稼いで、娘の家に届ける。死んだ人間がそんなこといつまでも続けられるわけではないだろうし、あの子も不審に思うだろう。死んだという事実はもう覆せないのに、そんな中途半端なことを続ける意味はあるのだろうか。
「とにかく、寿々にもうこれ以上苦労させるのは耐えられない」
「……あのさ、殊勝なこと言ってるつもりかもしれないけど、元はと言えば全部おばさんの自業自得だからね」
 はあ、と大袈裟にため息をついて吐き捨てる。予想以上に面倒なことに巻き込まれてしまった。この労力と心労はどう考えても傘と交通費の対価として釣り合わない。この女が親ではあの子はさぞ苦労したことだろう。ぐれて変な道に走らなかったのが不思議なくらいだ。
耳障りな金切り声で反論が来るかと身構えていたが、予想に反してそれは来なかった。おそるおそる女の顔を覗きこむ。
ぼろぼろとサングラスの隙間から大粒の雫が頬を伝って流れ落ちた。
「え、ちょっと、泣いてるの?」
 悠多はぎょっとして思わず大きな声を上げてしまった。周囲の目が一瞬彼らに集まる。
慌てて服のポケットを探ると、道を歩いている時に貰ったポケットティッシュが入っていた。それを手渡すと、女は鼻をすすりながらそれで涙を拭った。サングラスの下では目の周りの化粧が涙で崩れて酷いことになっているだろう。
 泣くのはずるい。悠多の言い方も悪かったかもしれないけれど、そう言われるだけのことをしたのはこの女のほうだ。けれどそれを咎めたところで、女は余計に泣くだけだろう。
「……ああもう、わかったよ、わかりましたよ。ほんとめんどくさい」
面倒くさいと思うのに、泣かれたら邪険にするわけにはいかなくなる。女はずるい。
「とりあえず、まずは寿々ちゃんがあの男とくっつかないようにすればいいんでしょ?」
 女は無言で頷いた。
「じゃあ、あいつより好きな人ができればいいんでしょ」
「……好きな人って、誰かいい人いるの? 半端な男じゃ承知しないわよ?」
「容姿端麗、頭脳明晰、金もあって性格満点、そんな完璧男が現れたらどうよ? バイトやめてあの男と距離ができたら自然に関係は消滅するんじゃない?」
 男の方としても、気になっている女の相手が明らかに自分より格上の男だったら、引け目を感じて距離を置いてしまいたくなる。あの洵という男がそういうタイプであることを願う。面倒事は早く終わらせてしまいたい。
 あの子を騙すのは心苦しいが、この親を恨んでもらうより仕方がない。いや、あんな生い立ちでは今さら何をしなくてももうとっくに恨んでいるかもしれないが。
「そんな男、心当たりあるの?」
「まかせて」
 不審げな顔をする女に、悠多は胸を張って断言した。
 




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