小説

□透明なこころ
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 自分が正しいことをしたなどと思っていない。
クロナだって、最初は殺すつもりだったのだ。シュラが傷ついて墓地に現れた所を助けてくれたのに、目が覚めた時に最初に思ったのは「軽くて運びやすそうだな」ということだけだった。なのに、クロナは赤の人間に見つかって逃げ損なったシュラを庇い、抵抗して何人かに怪我を負わせてしまったシュラに怒り、怪我と疲労で動けなくなったシュラに自分の眼球を与えて、「これで生きろ」と言ってくれたのだ。助けるべき者のために生きろ、と。それがどういう意味か理解していないわけでもないだろうに。シュラがまた同じことを繰り返すかもしれないのに。
「……お前はもう、俺のために何かを犠牲にする必要はないんだよ」
 シュラははっと目を見開いた。ジエンは微かに唇を歪めて笑う。
「頼むよ。もう、お前が悲しむのを見たくないんだ。もう十分だよ。みんないずれ死ぬのは一緒、死に方がちょっと変わってるだけだ」
「…………」
「それにな、俺は幸せ者だったんだよ。親が死んで子が生まれる。大事な『息子』と暮らすことなんて、普通の親にはできない。みんなこんな幸せな思い、できないで死んでしまうんだから。お前は俺の大切なあいつの息子で、俺の大切な『息子』だ。俺は幸せだったんだ」
「……やめろ」
「だから……お前も幸せになれ。こそこそ何をしているのか知らないが、辛いんだろう? ……お前は昔っから馬鹿で不器用で要領悪いんだから、無理するな。俺をいつまでも構ってたら……悲しいばっかりだ」
「……もう、頼むから、黙って」
「……俺はズルして幸せになったから……きっとバチが当たったんだろう。お前は全部謝って……俺のことも忘れて……幸せになれ」
 声は次第に不明瞭に擦れていく。苦しそうな喘鳴が弱弱しく喉を震わせた。
「……シュラ」
 ゆっくりと、手を前に押し出す。思ったほどの抵抗もなく、弾力のなくなった皮膚に小さな刃が飲み込まれていく。
「…………ジエン」
「……いや、やっぱり親のかっこいい時の姿くらいは……憶えとけよ、死ぬまで」
 カサカサと音を立て、声にならない断末魔の叫びを上げるように、動かぬはずの植物が震える。腐臭が濃くなる。いや、これは死臭なのか。
 ほとんど動かない唇でシュラの知らぬ女の名を呼び、穏やかな笑みを浮かべたままジエンは瞼を閉じた。
こけた頬が肌の色を失い、白く乾いていく。
 青々として残酷なまでに瑞々しかった植物が、栄養とする宿主を失って黄色く変色し、ぐったりと垂れ下がり、どろりと溶け落ちていく。黒っぽい緑の粘液質なものは、シュラの見つめる先で硬く乾き、崩れ、白い灰となってさらさらと床に流れていった。
 自分の心が脆い砂の塊のように崩れていくような気がした。静かに、穏やかに、心が壊れていくような気がした。自分の呼吸音がどこか深い所へ段々と遠ざかって行く。それは疲れ切って深い深い眠りに引きずり込まれていくような、抗しがたい、心地よい誘惑だった。
気づいたら、視界は真っ暗だった。
華奢な白い手が優しくシュラの目を隠してくれたようだった。もう何も見なくていいと、慰めるように、守るように。







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