約束のとき

□隠す思い
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ジャーファルを見て逃げた日から数日。

夜の帳が落ちた頃、書庫からの帰り道のことだった。
昼とは打って変わって、美しく静かな月夜。
時間が時間なので、人があまりいない廊下をゆっくり進んでいた。
時折立ち止まっては、見事な月を眺める。



そうして、中庭の一つに差し掛かろうとした時。
人の声がした。


「ジャーファルー、遠慮しないでもっと飲め!」


シンドバッドだ。


「ちょ、シン!酒臭いです、貴方はもっと自重しなさい!」


普段より朗らかに聞こえる声は、ジャーファルだろう。
酔っているのだろうか。


「ジャーファルさーん、そんなかてぇこと言うなよ〜」


この言葉遣いは、シャルルカンだ。
皆、特徴がすぐ掴める声だった。


「そうだそうだっ!お前だって十分酒臭いぞ!」


およそ大人に見えない態度。
しかも酔っているからか、所々間延びしている。
王でも酔えば完全無欠じゃなくなるのか。
面白くて、そのまま近くの柱に背中を預け、耳を澄ませる。

すると、シンドバッドとシャルルカンの矛先がジャーファルに向かい始めた。


「そりゃー酔いますよねぇ、ジャーファルさん。セフィリアちゃんに避けられて傷心気味なんでしょー」


愉快そうにゲラゲラと笑うシャルルカンが、聞き捨てならないことを言った。

わ、私…!?
自分の名前が挙がったことに驚く。
そして、「避けられている」という言葉にも。

避けてなんかない、と心の中で否定するが、それにタイミングを合わせたように横やりが入る。


「セフィリアは最近、ただでさえ部屋にこもりきりらしいからなあ。その上、先日はジャーファルに気付いた途端焦って逃げていたし…もしかして、お前何かしたのか?」


そう言うのはシンドバッド。

まさか、シンドバッドさんもあの時、あの場にいたの?
というか、私が逃げたこと気付かれて…!


「…私は何もしていませんよ」


はあ、とため息と一緒に吐き出された言葉。
なんとなくだが、沈んでいるように聞こえた。


「まあ、それか〜…セフィリアちゃんも満更じゃあないってことっすかねぇ」


さっきから、シャルルカンの言葉が一番私を揺さぶっている気がする。

満更じゃない、それはつまり、私がジャーファルさんに気がある、ということだろう。
私も鈍くはないので、それくらいはわかる。

ひとまず私はよくわからないからパスだ。
結局、ピスティに話した時以来、それについての思考は放棄している。
だから私の感情については置いておいて。



一つだけ、引っ掛かることがあるのだ。

シャルルカンは、「セフィリアちゃんも」満更じゃない、と言った。

私、も。


も?


文脈から導き出される答えは、ジャーファルが私に好意を持っているということ。

そこまで瞬時に考えて、同時にあり得ない、と思った。
ジャーファルは私に対してとても親切にしてくれているが、それは別に特別扱いをされているわけではないだろう。
それに、そう頻繁に接触しているわけでもない。

この前の熱の件だけ、よく部屋を訪ねてくれただけで。
ジャーファルが私を好きになる要素など、皆目見当もつかないのだ。

シンドバッドやシャルルカンの話にジャーファルが目立つ反応を返した訳ではないから、これはきっと勘違いか何かだ。
自分に言い聞かせるよう、心で一言一句違わずに唱えた。

ため息を吐こうとして、やっぱり止め、小さく開けた唇の隙間から空気を出す。
冷静さが戻って来た。

そうして、私はまた何かに気付く。
危うく完全に聞き流す所だったが、寸前で掬い上げた。


シンドバッドはあの時、遠く離れていたにも関わらず、私の感情の機微がわかったのだ。

それだけ観察眼が優れているのか、気配に敏感なのか。
…だったら、私がいることも、わかっている?

今更ながら、背中がひやりとした。
なんだか取り返しが付かないことになりそうだ。


ここはなんとか気取られないように立ち去るべきか。
恐る恐る、片足をずらす。
我ながら細心の注意を払った行動だった。

しかし。
酔っ払いと化した王は、時に残酷で。


「ああ、ようやく気付いたみたいだな」


本当に酔っているのか疑わしいくらい、爽やかな笑い声が響く。


「あれ、マジかよ。もーちょっと色々言うつもりだったんだけどなあ」


シャルルカンは、なんというか、最悪だ。
楽しんでいる節がある。
普段は良い人なのに…!


「なあ、隠れてないで出ておいで……」


名前を呼ばれる、と思った。
その瞬間、私は短距離の転移魔法を発動させ、数メートル離れた所に逃げる。
本当は部屋まで行こうとしたのだが、気が動転しすぎていた。

命令する内容を混濁させてしまったのだろう。
魔法の失敗は初めてだ。

全く関係ないことを考えて、でも両足は忙しなく動いている。
すぐに息があがるけれど、止まれなかった。
あの日の昼間のように角を曲がる。
その時と違うのは、私が最初から走っているということ。

ここから部屋まではわりと距離がある。
やはり転移魔法を使うほうが早いだろう。


そう考えたのが命運を分けたのか。

鈍った逃げ足は、間を置かずして完全に止まることになる。


「セフィリア…!」


後ろから手を掴まれ、腰に腕を回されてぐい、と引かれた。
すっぽりと、私を追ってきた彼の腕の中に収まる。
追い付かれた割には乱れのない呼吸が、頭上を掠めた。

これ以上の抵抗は無駄だとわかって、逃げたそうとはしなかった。


「セフィリア…」


ただ私の名前を繰り返すジャーファルに、勇気を振り絞って謝る。


「ごめんなさい!あの、シンドバッドさんの話が面白くて…ええと、盗み聞きするつもりではなかったのです…が…!」


途切れ途切れの謝罪の言葉はしかし、終わりを迎えずに切れる。

肩にも腕を掛けられ、抱きすくめられたからだった。
私は瞠目した。
言うべき言葉が、散り散りになってまとまらない。


「わかっていますから、大丈夫です」


感情を伺わせない平坦な声。
怒っているのでは、と不安になる。
むしろ、緊張で身体が固くなった。

それがわかったのか、声が柔らかいものに変わる。


「怒っている訳ではありませんから、気にしないで下さい」


こくん、と頷くと、腕の拘束がなくなった。

音もなく振り向くと、目が合う。
熱を感じさせるダークグレーの瞳とぶつかって。
お互い、何も言えなかった。

私は混乱と緊張が原因だが、ジャーファルの場合は違うようだ。
何かを言おうとして、迷い、自分の中に仕舞い込む。

普段の彼らしからぬ姿に、かえって落ち着きを取り戻せた。
再び何かを口にしようとしたのをさえぎる。


「私は!…何も、聞いていませんから」


いきなりの科白に、ジャーファルがほんの少しの戸惑いを見せた。
それに畳み掛けるようにして続ける。


「だって、なんだか…気不味いです。ジャーファルさんも、何か言いにくいことがあるのでしょう?だから、私は聞かなかったことにします」


彼の真意、それは理解するには及ばないけれど。
私に伝えることを、ためらわせる何かがある。
それだけは、はっきりと掴んでいるから。

足りないものは、私にあるのか、彼にあるのか。
直感だが、きっと、私だ。

だから、見つけるまで目を少し逸らしていて欲しい。


「わかりました。『聞かれなかった』ことにしましょう」


わずかな間があって、ジャーファルは同意してくれた。
一先ず安堵して、息を吐く。


「それと、避けててすみませんでした」


深く頭を下げると、上からおや、という声が聞こえる。
気になって、ぱっと顔を上げると、悪戯っぽく笑うジャーファルが目に入った。


「聞かなかったことにするのでは?」


そうだった、けれど。


「違います。自覚は…多少ですが、ありましたから」


うつむきそうになったが、寸前で思い留まった。
居心地は悪いけれど、自分が招いたことだ。


「それは、何の?」


優しく促す声に、何でも話したい気分になる。
私は、彼に誘導尋問されたらきっと全てを打ち明けてしまうだろうと、ふと思った。


「避けてしまったことについて、です。すみませんでした」


もう一度、謝る。
彼は一拍置いて、首を横に振った。


「いいえ、もう気にしていません」


微かな笑みを浮かべ、彼は私に手を伸ばす。

頬に、ひんやりとした温度が触れる。
男性にしては綺麗で、それでいて固い手。
長い袖の口からは赤い色が覗き、それが絡まる腕には、無数の小さな傷痕が残っている。


「あまり、見ないほうがよろしいですよ。見ていて気持ちの良いものではないですし」


ジャーファルの瞳がわずかに陰る。
そこには彼が辿ったであろう凄惨な過去が映っているようで。


「すみません、私…」


しかし私は立ち入るべきではないのだ、と自らに言い聞かせる。
人の心に土足で無遠慮に踏み入りたくないし、そのような勇気もない。

頬に添えられていた手が静かに離れ、一瞬の後にそれは私の頭に乗った。
まるで壊れやすい物を扱うように、触れるか触れないかの柔らかい手つきで撫でられている。

私の思っていることはお見通しなのだろうか。
絶妙なタイミングで、沈みそうだった気持ちが持ち上げられる。


「セフィリア、『答え』を探してください」


どこまでも穏やかに告げられた謎めく言葉。
私はそれをおうむ返しで呟く。


「『答え』…?」


先ほどの話の続きなのだろうか。
私がそれを見付け出せば。
そうすれば、ジャーファルの言いづらそうにしていた事がわかるのか。


「それはきっと…あなたの中にあるはずです、セフィリア」


私が知っているという、「答え」。

何か、ジャーファルにしてしまったのだろうか。
しかしこれといって特別な事はしていないはずだ。
だって、私と彼はこの半年間で、あまりコンタクトを取っていないのだから。


「ゆっくりで良いですから、見つけて下さい」


これはとても抽象的な会話だ、と唐突に感じた。
でも、何故だかそれは成し遂げなければならないと、そう私の中の何かが訴える。


「…はい、必ず。お約束します」


静かに決意を表すと、ジャーファルは柔らかな笑顔をくれた。

彼の背後、規則的に並んだ柱の影が伸びているのを見るともなしに目に入れる。
夜空に浮かぶ丸い光が、私たちを照らして。



月が、綺麗だった。






 

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