新テニスの王子様

□迷える者達
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目の前に広がるのは白い天井。
漂うコーヒーの香りが自分の大好きなものだとわかり、朔矢は小さく体を動かした。

「いっ…」

痛い。
ずきずきと継続する頭痛と、動いた瞬間に鋭く体に走った痛み。
思い出したくなかったことが次々と鮮明に描き出されて、朔矢はじわっと目に涙を浮かべた。

「一条くん」
「ぁ…齋藤コーチ」

きしっとベッドが鳴く。
齋藤が居るということで、なんとなくわかっていたこの場所がどこなのかが確信に変わった。

目覚めたらベッド、だなんて。夢だったんだと思わせてくれたら良いのに、体の痛みがそれを許してくれない。

そんな朔矢とは裏腹に、齋藤はいつも通り朔矢の寝るベッドの端に腰かけて、良い香りのコーヒーをすすった。

「調子はどう?」
「…えっと…俺」
「昨夜、徳川くんが君を運んで来てくれたんだよ」
「あ…」

額に貼られたひんやりとするシート。
恐らく初めての行為に体が驚いて、更に水を頭からかぶるという所業に体が限界を向かえたのだろう。
頭がぼうっとして、体が熱いのはそのせいだ。

「あの、今日の練習は…」
「大丈夫。ちゃんとこっちで見てるから」
「そうですか…」

正直こうなって良かったと安心している。それは、幸村と顔を合わせずに済んだからだ。

それに、嘗て痛みを感じたことのない体の部位の激痛。さすがにこれは隠せそうにないし、何よりも動けそうもない。

「辛そうだね」
「い、いえ」
「どうして、夜中に水浴びなんてしたのかな」
「…そういう気分で」
「気分、ねぇ」

きしっと再び齋藤の体重のかかったベッドが音を立てる。
齋藤は体を乗り出して、朔矢を上から見下ろしていた。

「…齋藤コーチ……?」

朔矢の顔の横に齋藤が手を付いて、ぐっと顔を近づける。
その瞬間、齋藤が怒っていることに気付いた。何故気付かなかったのか、いつもと変わらないと思ったのか自分を疑うくらい、齋藤は怒っていた。

「やはり君を呼んだのは間違いだった」
「あの、退いて下さい」
「無防備過ぎるとは思っていたけど…。ここまでとは」
「え…!?」

齋藤の指が首から胸へと伝って体を這う。驚きと恐怖とで震えた朔矢を見ても、齋藤は手を止めなかった。
着せられたジャージのチャックが齋藤の指の動き応じて開いていく。

「齋藤コーチ、もしかして…知って…?」
「自分の体に残る跡を見れば、その理由がすぐにわかるよ、一条くん」
「そんな…!」

開いた胸元を覗き見て、唖然とした。点々と刻まれた所有の証。それは昨夜のことを完全に証拠として表している。

朔矢は咄嗟に齋藤の手を弾いて胸元を手で隠した。

「っ…」
「君の尊厳の為にこのことを大きくするつもりはないよ。でも、見過ごすことは出来ないな」
「…はい」

恥ずかしい。恥ずかしくて居たたまれなくて、齋藤の目を見ることが出来なかった。
しかし、齋藤の視線はずっと朔矢に向けられている。いくらなんでも、熱すぎる視線を感じて、逸らしたままということも出来ない。

「…あの、齋藤コーチ…?」
「あぁ…駄目だね。ここではコーチでなきゃいけないんだけど…」

齋藤の顔が更に近付く。思わず強張った朔矢だったが、齋藤の頭はそのまま通り過ぎて朔矢の肩口に埋められた。

齋藤の長い髪がぱさっと朔矢の手の上に流れ落ちる。

「君を誰かに奪われたのだと思うと…どうしても…」
「え、あの」
「ずっと、見守るだけでいようと思っていたのに…君をこちらに引き込むわけにはいかないと…」
「ま、待って下さい…何、を」

あんなことがあったから、自分の感覚が麻痺しているのではないかと疑う。

しかし、今の齋藤の言動が何を表しているのかなんて、一つの理由でしか説明できなかった。
そして、それを口に出してしまったら、頷いてしまったら、もう今までのようにはいられない。

「一条くん、君が愛しいよ」
「っ…!」

朔矢の願いは齋藤に届いていなかった。そんな言葉聞きたくなかったのに、何故か顔がとても熱くて、心臓が煩くなって。
齋藤の思いは全然嫌じゃない。この矛盾はなんだ。

「なんで、そんなことを今…っ」

朔矢の戸惑いに気付いたのか、齋藤はゆっくり顔を上げて、いつもと変わらない顔で笑った。

「ごめんね。でも、だからって君をどうこうしたいとかじゃないんだよ。触りたいし、こうして跡を植え付けてやりたいとも思うけど」

すっと齋藤が朔矢の胸元をなぞる。

「君は嫌がることは絶対にしないから」

いつも安心させてくれたこの穏やかな口調にも、朔矢は体を強張らせた。
駄目だ、齋藤の目が見れない。

「あ、もう既に嫌がってる?」
「い、嫌っていうか…もう、訳がわかんない、です」
「困らせてごめんね」
「謝るくらいなら言わないで下さいよ」

今までの自分の人生の中に起こり得なかった事態が急激に襲ってきて、もう何がなんだかわからなかった。
それでも全て現実。全てが夢でした、なんて意地の悪い演出など待ってはいないのだ。

「あの…そういえば徳川くんは、何か…」
「安心して。彼は何も知らないよ。相当焦っていたみたいだし」
「そうですか…」

徳川には申し訳ないことをしてしまった。
だからこそ今すべきは、しっかりと切り替えて何も無かったように振る舞うこと。
心配かけてごめん、もう大丈夫だから、そう告げればいい。

それで、幸村はどうする。
何か気付いて欲しくてあんなことをしたのなら、それを無視したことになってしまうのではないか。

「…」
「一条くん、余計なことは考えないで今は休んだ方がいいよ」
「…はぁ」
「なんて、ボクに言えたことではないけど」
「全く…本当ですよ」

確かに、心も体もがたがただった。

しかし朔矢は面倒なことは先に終わらせないと気に食わない性質の持ち主で。それこそ、今は考えても仕方ないあれやこれやを無視することなど出来なくて。

「齋藤コーチ」
「ん?」
「ごめんなさい。貴方の気持ちには、今は…応えられない、です」
「律儀だね」

わかってるよと軽く言った齋藤はすっとそこから立ち上がって、寝ている朔矢の位置からは見えなくなった。
齋藤のことを真剣に考える余裕は今の朔矢には備わっていない。齋藤もわかっていて告白したはずだ。

それでも、罪悪感のようなものが胸を締め付ける。

「…っ、」
「ボク、いない方がいいかな」
「…」
「適当に休んで、大丈夫ならそのまま部屋出て行っちゃっていいよ」

見えないところでがたがたと齋藤の動く音が聞こえる。気を遣って一人にしようとしてくれているのだろう。

「あの…!」
「ん?」

視界に映らないように朔矢は自分の胸元をぎゅっと握り締めた。
視線だけを齋藤に向けて、かさかさになった唇をゆっくり開く。

「俺にこんなことをした人は…俺のことを、どう思っているんだと、思いますか…?」

齋藤に聞くべきことでは無い。わかっている。
しかし齋藤なら。この人なら、何か朔矢にとってプラスになる答えをくれるのではないかという根拠の無い期待があった。

んー…と間の抜けた声が朔矢の耳を掠める。

「少なくとも、嫌いな人間に対してする行為ではないでしょう」
「…」
「男相手に勃たせて、中出しなんて」
「え…!?」

思わず痛む体を起き上らせていた。
朔矢の目に映った齋藤は、目を細めて痛々しそうに眉を寄せている。

「ごめんね、一条くん。君が寝ている間にかき出しておいたよ」
「…な、」
「ごめんね」

ぱたんと扉が閉まって齋藤が姿を消した。





一人になった部屋は、当然のように静かで、自分の息しか聞こえない。
布団をかけられて見えない自分の下半身に意味もなく視線を落として、朔矢は顔を両手で覆った。

痛むその場所に、齋藤も触れたのだ。齋藤の指が中に。

「…!」

カップを持っていた大人の手。いつも嫌だと言っているのに頭を撫でてくる優しい手のひら。
それを考えるだけで顔が沸騰しそうな程に熱い。両手では抑えきれない何かが膨れ上がる。

ぼふっと再びベッドに背中を預ける。

寝てしまいたいのにまだまだ眠れそうにない。
カーテンの外で行われる当たり前だった日常に戻りたくて、でも戻りたくない。今はここで現実から逃れていたかった。




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