新テニスの王子様
□思惑
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きし、きしとベッドの軋む音。
寝不足故か、瞼が重くなるのを感じて、朔矢は腕に力を入れて体を起き上らせた。
「あれ、寝てていいんだよ」
「…本当に寝そうなんですよ」
齋藤の手が朔矢の足を解す。
どこでバレたか見られたか、齋藤は朔矢が跡部とテニスをしたことを知っていた。
今日の練習が全て終わったら部屋に来なさいと言われて来てみれば、寝かされてマッサージ。
そこまで気にする必要ない、という言葉は全てスルーされ今に至る。
「一条くんは、本当にテニスが好きなんだね」
「普通ですよ」
「いやいや、三日、四日で限界かと思いきや、それより早かったからね」
「別に俺は、試合しろって言われたから…それに応じただけです」
「へぇ、そうなんだ?」
クスクスと笑っている齋藤が何を考えているかなんて、朔矢にも容易に想像出来た。
齋藤は朔矢の事をよく知っている。悔しいほどに。
「…本当は、合宿初日にもしたんです。試合」
「それはそれは」
「中学生強すぎですよ、どうなってんですか」
少し低めに見積もっても、越前リョーマと跡部景吾の実力は5番コート以上。あっという間に高校生達を圧倒してしまうだろう。
他の中学生達だって、手合せしなくてもわかる。朔矢が勝てる相手など、恐らく存在しない。
「悔しかったでしょう」
「当たり前ですよ。負けて悔しくないなんてこと、有り得ない」
自然と手に力が入った。今でも残るボールの重み。ラケットの感触。
「一条くんの全盛期なら」
「…え」
「思いません?自分で、全盛期なら勝てたかも、と」
体格差のない相手。越前リョーマはむしろ朔矢よりも小さい。
筋肉が付きにくいからとか、当時気にしていたことは全く当てはまらない。ただ、テクニックで劣っていた。
「でも…そんなの言い訳ですよ。もう、俺には関係のないことだ、過去のことなんて」
「んー…。なかなか頑固だねぇ」
齋藤の手が朔矢の足から離れて、不思議に思っていると腰を掴まれていた。
「っ!!」
「おや」
「ちょ、ちょっ!やめッ!!」
きゅっと抑えられて、それからすすっと脇のラインをなぞられる。ぞわぞわした感覚に、朔矢は足をばたつかせて抵抗した。
「さ、さいとっコーチ!あ、あっ、も…!」
言葉が繋がらないのは、しゃべる余裕もないからだ。齋藤の手を掴んで剥がそうとするも、さすがに大人の男の手はがっちりとしていて思うようにいかない。
「そんなにくすぐったい?」
「ですっ、から!ぁあ、もう!」
腰を捻らせてなんとか手を離そうとする。そうしてもがいていたからか知らないが、齋藤の手は前触れなくパッと離れた。
「、はぁ…っ」
「ごめんね、一条くんが可愛いからつい」
「ふ、ざけないで下さいよ…!」
今日一番の疲労でないかと思える程の脱力感に襲われる。
ベッドに横たわったまま大きく呼吸を繰り返していた朔矢の耳に、齋藤が立ち上がる音が聞こえた。
それから少しすると、こぽこぽという音と、爽やかな深みのあるコーヒーの匂いが部屋に漂い始める。
「はい、どうぞ」
「こんなことしても、許しませんよ…」
「いらないのかな」
「もらいます!」
齋藤のいれるコーヒーは好きだった。朔矢の好みに合わせて自分が飲むのと違う、少し甘めのコーヒーを用意してくれる。
高校時代から何かと齋藤と関わることが多くて、正直に言ってしまうと大事にされている自信はあった。勿論今もだ。
「齋藤コーチ、誰にでもこんなに気を遣っているんですか…?」
「何、どうしたの?」
「いえ、だったらすごく…疲れそうだなと思って」
まさか自分だけ、なんて自惚れているわけではない。とはいえ、齋藤が他の人と親しくしているところはあまり見たこともない。
暫く顎に手を当てて、うーんと唸っていた齋藤は、長い髪を揺らしながらベッドに腰かけた。
座っても齋藤と朔矢の頭の位置はずいぶんと違う。自然と上がる朔矢の顔に齋藤の手が触れた。
「一条くんだけ」
「…は、」
「と言ったらどうしますか」
「…え、と…光栄、です」
躊躇いがちにした朔矢の答えに齋藤は楽しげに笑い出す。
持ち上げるように朔矢の頬を挟んでいた齋藤の手はするりと離れて頭をくしゃりと撫でた。
「ちょ…!からかったんですか!」
「いや、嘘は言ってないよ。実際ボクは君以外をここへ呼んだことはないからね」
「…そ、なんですか…?」
「はい」
にこっと笑う齋藤は綺麗だった。
長身に見合う長い髪の毛。これほどの長髪が似合うのは、やはり齋藤が美人だからなのだろう。
改めてそれを感じて、朔矢は急に恥ずかしくなっていた。そして、自分だけが特別であるということに対する喜びが込み上げる。
特別であるということは、誰であっても嬉しいものだ。それが、いつも自分を困らせてくる齋藤であっても。
「齋藤コーチ…」
「はい?」
「また来ていいですか」
何かあったらとか、呼ばれたらとかじゃなくて。
やはり、年上の存在はとても安心出来たのだろう。ここに来ると、自分がなんとかしなければ、という堅苦しい考えがなくなる。
「いいに決まってるでしょう。いつでも来ていいんだよ」
「…そんなに暇なんですか」
「はは、そうだねぇ。他のコーチと比べたら案外暇かもね。君がいないと」
「なんですかそれ」
小さく肩を揺らして笑う。その朔矢の頭の上に、とんと手が乗った。
大きな手が朔矢の頭を撫でまわす。気持ちが良い。
「無理はしないように」
「…はい」
今日くらいは素直になってもいいか。
朔矢はこくんと頷いて、カップを齋藤に手渡した。
立ち上がると、別に悪いわけではなかった足の調子はもっと良くなっていて、朔矢は齋藤に頭を下げた。
ふわふわとしている癖に、本当は見た目以上にいろいろ考えている、賢い人だ。そんなことはわかっている。
「また来ます」
「はい、また」
もう一度深く頭を下げて、朔矢は部屋を後にした。
部屋に広がるコーヒーの香りが後を引いて、また来ようという思いを強くしていた。
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