黒子のバスケ
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暫く自分の身に何が起きたのか理解出来なかった。
絶対的な存在。皆が見上げるその人は、キセキの世代のキャプテンである赤司征十郎だ。
その赤司の声が聞こえただけでも真司にとっては相当の、平常心ではいられない事態なのに。
頭の上で聞こえる息は青峰のものだ。手のひらで恐る恐る胸を押してみても、その分厚い体はびくともしない。
「…大輝、何をしてるんだ」
「んだよ」
「そんなことをされたら、真司が見えないじゃないか」
青峰の手が真司の頭を掴み覆うようにして、そのまま顔は青峰の体に押し当てられている。
軽く真司の耳を塞ぐ青峰の手は、赤司の声を遮りたかったのか。
しかし、凛とした声は青峰の掌をすり抜けて真司の耳に入り込む。
「そもそも大輝にそんなことをする資格があるのかな」
「あ?資格?」
「真司の気持ちに応えない、お前が」
赤司の言葉にぴくっと青峰の手が震えた。
どうして今、そんな話をするのだろう。
真司自身、考えないようにしていたのに。
「真司、顔を見せてごらん」
たんたん、と静かな足音が近付いてくる。
近付いたその声色、それから彼の言葉選びにも違和感はあった。
青峰のことをいつの間に下の名で呼んでいる。それに穏やかな声は微かな冷気を含んでいる。
「…真司」
「や、…」
「嫌?そんなはずはないだろう、真司」
でも、それだけでこの赤司が自分の知っている赤司でないとどうして言えるのだろう。
申し訳なさそうに、けれど真剣な面持ちで赤司のことを伝えてくれた黒子の言葉は嘘でない。そう、疑ってなどいないはずなのに。
「…あ、あかし、くん…」
「ああ、会いたかったよ、真司」
彼の声が自分の名を呼ぶだけでどうにかなりそうだ。
黄瀬も緑間も、そして青峰もが無意識のうちに避けようとした真司と赤司の再会は、やはり真司の中の均衡を壊そうとして。
それに自ら気づきながらも、真司はゆっくりと顔を上げた。
「おい、オレもまぜてくれよ」
顔を上げて視界に映るのは、赤司の姿のはずだった。しかし目の前に入り込んだのは、見慣れた背中。
その大きな背中は自分と同じ色のジャージを着込んでいる。
「火神!」
「おう、ただいま」
突然現れた男の名を呼んだのは、安心しきった降旗の声だった。
今丁度到着したところだったのだろう。火神は大きな鞄を肩にかけたままだ。
「あんたが赤司か、会えて嬉しいぜ」
単純な火神のことだ。ただ今目の前にいる強い相手に対して、期待しそして挑発しているだけ。
しかし、今はタイミングも状況も、何もかもが悪かった。
「…真太郎、ちょっとそのハサミ借りてもいいかな?」
「?…何に使うのだよ」
「髪がちょっとうっとうしくてね。切りたいと思っていたんだ。…まあ、その前に火神君だよね?」
緑間のラッキーアイテムであるハサミを受け取った赤司が火神に近付く。
そしてそのまま前触れもなく、赤司はハサミの切っ先を火神の顔に向けて突き立てていた。
「うお!?」
「火神君!」
「へえ、よく避けたね。今の身のこなしに免じて今回だけは許すよ」
黒子は驚きと焦りで声を荒げ、さすがの火神の頬にも汗が滲む。
火神が避けなければ、間違いなく刃は火神の肌を切裂いていた。
「ただし次はない。この世は勝利が全てだ。勝者はすべてが肯定され、敗者はすべて否定される」
自分がしたことに対して何も思わないのか、赤司の声は冷静を保ったまま。静かな声色がビリビリと空気を震わせる。
「僕は今まであらゆることで負けたことがないし、この先もない。すべてに勝つ僕はすべて正しい」
耳に軽く重なっているだけの青峰の手に自分の手を重ねて、赤司の言葉を拒むことは出来た。
けれど、間違いなくこれが今の赤司の姿なのだ。
真司は青峰の腕を掴んで、ゆっくりと自分の耳から剥がした。
「僕に逆らう奴は、親でも殺す」
目を開くと、視界には記憶にある赤司とは違う赤司の姿がしっかりと映っていた。
確信する。本当に、自分の知っている赤司ではなくなっているのだということ。
「どうして…」
真司は、耐えきれずぽつりと呟いていた。
その小さな声に、その場にいる全ての目が真司に集まった。
空気が酷く、視線が痛い、目がチカチカして呼吸も止まりそうだ。
「なんで、こんな、赤司君…」
口を開いたはいいが、何を言ったら良いのか分からなかった。
現状に混乱している。視界に映った火神の頬には赤い線が出来ているし、赤司は本当に髪にハサミを入れたようで前髪が短くなっているし。
「ああ、やっと真司の顔がよく見えた」
火神に向けていた表情から一変、赤司が穏やかに目を細めて微笑む。
ちらと一瞬鋭い瞳が真司の後ろを睨み、青峰の腕が真司から離れた。
もう、遮るものは何もない。
「真司、怖がらせてしまったかな。すまなかったね」
「あ、当たり前だろ、こんな…!」
「変わらないな、真司は。可愛い顔をして、僕に対してもそういう目を向けてくる…」
愛しい物に触れるように優しく、赤司の手のひらが真司の頬を撫でる。
真正面から見る赤司は、やはりあまり変わっていないようで、少し大人びていて。それから瞳の色が、何故か以前と違って見えた。
「真司…」
「っ…!」
駄目だ。この瞳には耐えられない。真司は辛うじて保った理性で赤司の胸を押した。
しかし、真司の細い腕では大した威力にはならなかったのだろう。
腕を掴まれ、そのまま近付いてきた赤司の顔が真司に重なった。
「んっ…!?」
再会の抱擁もなく、真っ先に触れたのは唇同士。
塞がれた真司の口の隙間から息が漏れる。
それをも喰らおうと言うのか、赤司は角度を変えて更に深く口付けた。
しっかりと頭を押さえられ、抵抗も敵わない。
「ッ、んん…!」
少なくとも、赤司は人前でこんなことをする人ではなかった。
それが真司の嫌がることなら尚更。キセキの世代の前なら、尚更。
いや、そもそもそんな風に思っているのは真司だけで、赤司の本質はむしろ。
「赤司君!止めてください!」
黒子の声を上げ、赤司の手が真司の体から離される。
赤司の支えがなくなった真司の膝はがくっと折れ、その場にしゃがみこんでしまった。
「ふ、そう怒るなよ」
「おい赤司、まさかこんなの見せびらかすつもりで呼んだんじゃねーだろうな」
「まさか。確認するつもりだったんだよ。あの時の誓いを忘れてないか」
赤司の言葉に、皆の目の色が変わる。
鋭い目つき、戦う意志の示した瞳だ。
「…ならばいい、次は戦う時に会おう」
赤司の足が遠ざかっていく。
再び階段を上がり始めた赤司は、途中で足を止めて振り返った。
「真司とは、二人きりで話す機会を設けるよ。近いうちに、また」
それだけ言い残し、今度こそ足音が遠ざかって行く。
その去り際を目にすることなく、真司は胸を押さえて呼吸を繰り返していた。
それでなくても、再会だけで胸が一杯だったのに。
「…っ、…」
「赤司っち、さすがにやりすぎっつか…緑間っちのせいっスよ」
「お、オレだって、こんなことになるとは思っていなかったのだよ」
「もー…真司っち、手貸すよ、ほら…真司っち?」
なかなか立ち上がらない真司を、黄瀬が心配そうに腰をかがめて覗き込む。
ようやく顔を上げた真司は、目に涙を浮かべて、首を横に振った。
「え、真司っち?」
「駄目…腰ぬけた…」
「ちょ、大丈夫っスか?」
「烏羽君、手を貸しますから、早く戻りましょう」
早くこの場を去りたいのか、黒子が珍しく真司を急かして立ち上がる。
そんな黒子に引き上げられると、真司もようやく緊張で溜まりきった息を吐き出した。
「はあ…ああもう、何これ…」
「烏羽ちん、久々の赤ちんに勃っちゃったんじゃないの〜?」
「げ、下品な事言うな…っ!それどころじゃないし!」
「ふ〜ん?」
そう、今日はそれどころじゃない、大事な試合は目前なのだから。
「…おい、テツ、引きずんじゃねーぞ。火神も、真司も」
青峰の声も、既に落ち着いていた。
その声に反応して振り返った黒子と火神の顔つきも、大分いつも通りのものになっている。
「分かってます。大丈夫です」
「お、おう…驚いたけど、試合にゃ影響ねーよ」
「ならいいけどな。真司、試合の時に赤司のことなんて考えんじゃねぇぞ」
「当たり前、だろ…そこまで余裕ないから」
試合に出れるかどうかは別として。
真司は小さく「待ってろよ」と呟いて、黒子と火神に引っ張られるようにして来た道を戻って行った。
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