『Angel's wing』

□66
1ページ/10ページ



ガイドが分厚い玄関のドアをノックすると数秒の沈黙の後、ゆっくりと開いた。


彼だ……髪の毛に混じる白髪が時の流れを感じさせたけど、僕に向けられる強い眼差しは変わっていない。


腕組みをした彼に手を差し出したところで握手は拒否されるだろう。


羽央の手を離し一歩前に出て“お久しぶりです”と頭を下げたのは、この形でしか礼を表せない気がしたんだ。


ガイドには僕達だけにしてほしい頼んでたから“車で待ってます”と彼は家に入らないまま。


真顔の著者は無言のままリビングに行き、座るようにと掌で指示した。


リビングの固いソファーに座ったけど、羽央は肩をすぼめ不安そう。


特に会話もなく張り詰めた空気は重い──


約束を守れなかったのはどんな理由があるにしろ、僕に非がある。


“用があるっていったのはそっちだろ?”そんな眼差しに僕は意識的に一つ息をつく。


嫌な気持ちにさせたまま時間を過ごさせてしまったのは僕の弱さだと認めるんだ。


「あの小説は別の作家が書いたものが本になりました。僕の力不足ですが内容的には原作の良さを十分に引き出した作品になったと思います。

あの時、僕に任すとおっしゃってくれたのに裏切る形になり申し訳ありません。謝罪が遅れたことをお詫びします。」


頭を下げることしか…それでも彼が納得いくまで謝るしかない…


「君は……あの本の著者セリザワと会ったことがあるか?」


なじられてもいいと思ってたから、芹沢のことを聞かれ拍子抜けして顔を上げた。


「はい、出版記念パーティーで一度だけ…」


そう伝えると腕組みした彼は眉間に皺を寄せて話し始めた。


「ずっと音沙汰なくて連絡したら現物が数冊送られてきただけ。契約も何もあったものじゃない…

本の内容も全く別物だから著作権も関係ないとこっちには何も入ってこなかった。あの時、翻訳権も契約したが翻訳しただけの本は売れないから出版しないと言われた。

利益だけを求める奴と手を組んだつもりはなかったが、結果として裏切られた気がしてるよ。

日本語がわかる奴に読んで内容を教えてもらったら、我々の精神性はちゃんと伝わってるしいい話だと言ってたがな。そんなものを書ける人間が裏切るか?聞くまで説明一つない事が信じられん。」


“セリザワに不信感があって、本の出来が良くても喜べない”と著者は付け加えた。


途切れなく紡がれる言葉に彼の鬱積した思いが込めれていた。


納得いかないのは当然だ。本当の著者は別にいるんだから…


僕が知っていることを全て伝えるしかない。それを知ったら彼の本が汚い人間の手に渡ったと後悔するかもしれないけど。


「そういうことか…はははっ……」


真実を聞いた後に出た著者の笑いの意味がわからずじっと見つめる僕に、彼は頬を緩めた。


「君の思いが変わったわけではなかったんだな。出版社に君のことを聞いたら、うちとは関係なくなったと言われた。君の目にあった情熱もあの場限りのもの…それを信じた己がばからしくてね。」


彼にとっては芹沢を許す許さないよりも、信頼できないものを信じてサインしまったのかという自問の答えをやっと手にして笑ったんだ…


本の内容は彼本人は読めないけど、評判がいいから否定する気にはならなかったんだろう。レストランの店主の言葉はきっとそこからきてる…


現実の汚さに本という世界から背を向けて生きてきた。だけど、やっぱり僕がしたいのは翻訳…


羽央がノートを抱えながら見せた笑顔。入院していた時に君が本を読むのを見て、僕が翻訳した本を読んでほしいって考えたことを思い出した。


君の人生は20歳から急に始まった。普通の人が経験して得る感情や判断基準を、僕が教えるんじゃ羽央は僕の枠の中で生きることになる。


人との関わりを持つのは難しかったから、本の中で色んな考え方があることを学んだはず。


今の羽央は外で過ごすことが多いけど、あの本を読んで得たものがあるのは確かだ。


僕の情熱は息をふきかえした──


「会いにきたのはお願いがあってきたんです──あの本の翻案(※1)を、いつかさせて欲しいんです。」


「翻案……?」


訝しげな顔を向けるのは当然だろう。翻訳、翻案は出版社との契約になる。


出版社の人間でもない僕がそれを叶える道は自分で作るしかない。


「僕はこれから日本で出版社を立ち上げようと思います。いつとは言い切れませんが、僕にとって大切なあの本の良さを伝えたい。

でも、翻訳では伝えきれない部分も多いし翻訳権はあの出版社のもの。翻案ならわかりやすく伝えることができると思うんです。」


言いたい事は言えたという満足感に浸れる余裕はない。


腕組みしたままテーブルに視線を落とした彼はじっと考えていて、張り詰めた空気の中で僕は手に汗を握る。


長い沈黙の後、静かな口調で彼は答えた──


「……私は君が準備を整える時を待てばいいんだね?」


その意味は可能な時が来たら許すというものだ。僕がそれを実現できるかどうか。


「はい、ありがとうございます。」


膝に額がつくくらい頭を下げると彼は何か呟いたけど、英語じゃなかったから僕にはわからなかった。


何と言ったのか…きっと今の僕には聞いちゃいかない気がする。


約束が叶えられる日がきたらその時に──


「ちょっと失礼するよ。」


彼は立ち上がり隣の部屋に行ってしまい、ソファーには僕達二人。


隣と見ると不安そうに俯いていて、僕が手を握ると力ない笑顔を作った。


こんな顔をさせてしまう僕は結局、自己中なのかもしれないね。出版社を作ると言ったことはまだ心の中にとどめておくつもりだった。


簡単なことではないのはわかってるし、君と一緒にいる生活を手放してまでと思う気持ちもない訳じゃない。


僕が動くことで羽央に感じさせるのは心配と不安だけ。


だけど言葉にした瞬間、やらずに諦めることはできないって思った。


勝手な男だって怒ってくれる方がいいんだけど、優しい君はそうしてはくれないね…

※1翻案とは、既存の著作物に依拠しかつ、その表現上の本質的な 特徴の同一性を維持しつつ、具体的な表現形式を変更して新たな著作物を創作する 行為


次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ