『Angel's wing』
□58
1ページ/9ページ
カヤックの講習をする羽央は、僕の視線を気にすることもなくはきはきしてる。
心地よい明るい声を聞いてると、話に引き込まれて頭が余計なことを考えない。
好きって気持ちが全身から溢れていて、やっぱり君の選んだ道は間違ってないって思うよ。
羽央がパドルの説明を始めると頭がチクリと痛みだしたけど我慢できるレベルだから無視していた。
差し出されたパドルを受け取ろうとすると、手から落ちた黄色いパドルが草むらに転がった。
なんで、こんなこと……今までなかったことに気持ちが焦る。
頭の痛みが一瞬で指先まで伝わり感電したみたいに全身が痺れた──
僕の体の中で何が起きてるのさ……
『今日はやめておきましょう。無理しても事故に繋がるだけだし、カヤックなら家にいればすぐ出来ますから。』
羽央のきっぱりとした強い口調に、考えこんでいた僕は現実に引き戻された。
顔に焦りが出たかもしれない。この場をやりすごさないと…
笑顔で“大丈夫”って言えばいいと思ったけど、声を発するどころか体から力が抜けていく。
倒れる訳にはいかないと必死に手をつくと四つん這いになったけど、立ち上がれそうにない…
こんな惨めな姿を君の前で晒すなんて、最低だ。
『……っ…、大丈夫!?』
君がどうしたらいいかわからないという視線を向けてるのを感じる……踏み出す足が一瞬戸惑ってた…
「ははっ………平気。寝るの遅かったから…僕も若くないね。」
目の前の雑草に言っても説得力なんてないけど、ここまでくると真実を伝えるくらいならどんな嘘でもいいやって自棄になる。
だけど羽央はガイドとして冷静だ。僕の腕を首に回しベルトを握ると“戻りましょう”って。
反論の余地なんてなかった。君の力をかりて立てたけど、いつ体に力が入らなくなるかわからないし。
一歩前へ進むのがこんなに大変だなんて…息があがる…
ソファーに横になると気を張ってた分、一気に疲労感が押し寄せ意識が持ってかれそうになった。
「ちょっと寝れば大丈夫だから、君も好きなことしてていいよ。」
声を振り絞った言葉は冷たい感じだけど、そうでもしないと声が震える。
羽央が心配しない言い方を考える余裕すらないほど、僕は追い詰められていた。
“わかりました”と言った君は仕方なさげだけど、狼狽えてはいない。
ほっとして目を閉じると近くでがさごそ音がして、体に薄手のフリースみたいな布が掛けられた。
ふわりと首までそれで覆われた僕は羽央と一緒に寝てた時の記憶に安堵し意識が遠のいていく。
懐かしい……羽央の香りがする…………
ダイニングの椅子を引いた音が聞こえた所で僕の意識は完全に途切れた。
記憶の中の僕は眠っているけど、夢を見たりしてる訳じゃなく写真のように切り取った場面が目の前に次々表われてたんだ。
それが何を意味するかなんてわからないし、ただ見つめるだけ。でも不思議と頭の痛みは感じない。
目を覚ますとリビングの天井が見え、頭には小さな痛みがある。
このままずっと痛みは消えないのかな…上体を起こしダイニングを見ても君の姿はない。
静まり返った家…羽央がいないだけでこんなに寂しいものになるんだね…
湖かもしれないと立ち上がると、ちゃんと体がいうことをきく。カーテンから外を覗くと、膝を抱えてカヤックの前にいる君が見えた。
俯くように湖面を見つめる羽央の姿を見た僕は、ここに来たことを少し後悔した。
のんびり楽しみたいなんて言って心配をかけてばかり。このまま無事に旅を終えられるかな…
戻ってきた君にカヤックがしたいと言ったら却下され、明日様子を見てということになった。
羽央は学校の先生みたいに厳しい顔をしてた。無言の威圧…君の言う通りにして、不安そうに寄った眉をなんとかしてあげたい。
頭痛以外は体に不調はないし疲れがあったのも事実。
アルバムを見る羽央を絶対に消えない絵にしたくて、必死に描いてたら朝になっていた。
柔らかな空気に包まれた羽央の笑顔を見れるのはきっと一度きり。
記憶には頼っていられなかったんだ…
絶対明日はカヤックをすると決め、一晩ゆっくりとベッドで横になった。
翌日になると頭痛が消えていて本当にすっきりしていたし、そんな僕を見て羽央も安心したみたい。
やっとカヤックに乗り込むと初めての浮遊感にちょっと驚いたけど、すぐにコツを掴んで漕ぎだした。
パドル一つで方向転換できたりスピードがでたりするのを体感すると思ってたよりも面白い。
カヤックを体の一部みたいに自在に動かせるようになるまで、そう時間はかからなかった。