『Angel's wing』
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昨夜からの雨は止み空はどんより曇っているけど、これなら飛行機は運航してるだろう。
湿度のある空気は、いつもより草木の匂いがしてつい深呼吸してしまう。
寝起きに感じた頭痛もなくなったし、今日もがんばろうと車に乗り込んだ。
ホテルには宿泊したくない──
近藤様の要望はそれだけで、何をするかはその時に決めたいそう。
お一人でいらっしゃるらから、その辺は対応できると思う。
旅のプランや食事。色んなパターンを頭の中でシュミレーションしてもなんだか落ち着かない。
どれもはずれな気がしてしまう…
名前はどっしりとした感じだけど、メールはどこか冷たい感じで壁を作ってる印象を受ける。
メールのやり取りでお客様の個性が掴めるから旅のイメージが湧くけど、数回やり取りしても近藤様は……よくわからない。
食事の件でアレルギーや好き嫌いを聞いたけど、“苦いのがだめ”の一言。
辛いとか甘いなら分かるけど、苦みがあるものと言えば野菜くらいしか思いつかない。
野菜が駄目だと料理しにくいなぁ…ガイドすることよりそっちの方が気がかり。
具体的に駄目なものも書いてなかったから、悩みつつ数日分の食材は購入してしまった。
飛行機は定刻に到着し大きな荷物を手にした乗客が流れるように出てくるのが見え、自然に背筋が伸びる。
会社の名前がプリントされた紙に“近藤勇様”と書いたものを、胸より少し高い位置で持ち探していた時だった──…
日本語が聞こえじっと見つめると二人連れで、別の出迎えた人の元へと行ってしまった。
乗客の波は終わり出てくる人の姿はもうない…まさか、乗り損ねた?
日本で乗らなかったら連絡がくるはずだし、乗り換え空港で何かあったのだとしたら大変。
ズキン……
頭が急に痛みだし考えることを邪魔しようとするけど、今はそれどころじゃない。
状況をちゃんと判断しないと。本当に乗ってなかった?荷物のコンベアの音が止まり見える所には誰もいない。
出口を一旦閉めるために係員が来たら、乗客は全員外に出たことになる。それを確認してから…
紙をショルダーバックに仕舞うと、スーツケースのキャスターが床を滑る音が聞こえ、もしやと顔を上げた。
近づく人の顔を見た瞬間、私の鼓動がまわりの風景をかき消していく……
どうして…?
とても現実には思えなくて、幻が見えたのかもしれない。
だって総司……が……ここにいるはずが…
気づいた時には数メートルもない距離まできていて、サングラス越しとはいえ目があった気がした。
見間違いなんかじゃない…
咄嗟に目を逸らしたけれど、行き場のない視線は床をいったりきたり。
私だって…気づいた…?…それとも、忘れられたかな…そんなことない…総司は全部憶えてるはず…
早すぎる鼓動は苦しさを伴い、意識をあの頃へと戻そうとする。
真新しい大きな靴が視界で止まると、囁くような声が聞こえ心拍数が一気に跳ね上がった。
「久しぶりだね。」
こんな声だった……かな……弱々しい…
優しかった時の声よりも、言い争った時の心に突き刺さるような叫び声の方が鮮明で、今との違いを余計感じてしまう。
それだけ時が流れたんだ──…
総司は手紙を読んだからここに来たのかもしれない。私は自分の道を見つけたんだから堂々としてればいい。
覚悟を決め、視界にある大きなスーツケースからそれを持つ手、腕と視線を動かしていく。
ちゃんと顔を見ると体が心臓になったみたいな鼓動は、喜びではなかった。
見て目の前に立っている人は確かに総司だけど、記憶の中の総司と重ならない。
年を重ねたからではなく、総司そのものの本質が変わってしまったような感じ。何がと言われたらわからないけれど…
濃いサングラスを外そうとしないのは、薬の副作用があるからなんだろう。
『何年ぶりだろう…ね。…どうしてここに?』
冷静さを保ったつもりだけれど笑顔をつくれるほどの余裕はなくて。そんな私とは対照的に、総司の声はさっきよりも明るい。
「僕が、近藤さんの名前で申し込んだんだ。」
その言葉に私は眉を潜めてぎりっとサングラスの奥にあるだろう瞳を見つめた。
『近藤様は来ないってこと?』
「うん、そう。ほら、これが証拠。」
総司が差し出したのは私が送った領収証。すぐに取り出せるようにポケットに用意してたなんて、計画的っていうか…
悪びれた感じもなく飄々とした態度で領収書をひらひらさせる総司の口は、綺麗な孤を描いてる。
挑発してるの?わざわざ名前を変えて申し込まなくても、私は仕事を受けていたと思う。
ここに来たいというお客様を私情で選んだりはしない。
ガイドとしてお客様とは正面から向き合ってるというプライドを傷つけられた気がした。
私が不快な表情を露わにしても、笑顔を崩さない総司にはそんな気持ちがあることなんて伝わってないんだろうけど…