『Angel's wing』

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「来週のツアーに一緒に行こう。」


『えっ!来週って…無理だと思います!』


「大丈夫。現場でお手伝いしてもらうだけだから。これだけの“熱意”があるのに、お客さんに会わないのはもったいないわ。

カヤックのツアーは後少しでシーズンが終わるし。無理強いはしないけどどうする?」


谷さんの視線に、私が選ばないといけないんだと気づくと緊張する。


カヤックが好き。ここが好き。旅行できた人にも楽しんでもらいたい。そのお手伝いができるならって…


不安よりも強い思いに返事がすんなり出た。


『やってみます…』


「そう言うと思ったわ。じゃ、打ち合せやり直しね。」


『はい。』


私は鞄に入っていた新しいノートを取り出した。


それからは目が回るような忙しさ。現場に行くとカヤックの移動や、キャンプの設営。体力的にすごく疲れる。


言われたことをやるだけで精一杯だけど、谷さんを傍で見てると凄い。


ここの“現状”や変化が織りこんだ話しは、本では知ることができないもの。


お客様の質問には的確な答えや指示を出すし、数日同行するだけなのに、お客様との信頼関係が見える──


私が話すことは殆どないけれど、カヤックから降りたお客様が満足そうな表情をしてるのを見ると、自分のことみたいに嬉しくなる。


やりがいのある仕事だって思う…


谷さんの所に入る仕事は英語圏のお客様が八割で、日本からは個人の旅行客だけだった。


緑の木々が黄色に色付きはじめると、ツアーはドライブしながら紅葉を見て観光するものに替わっていく。


車の運転を任された私も同行すると、黄色と赤の絨毯を敷いたような光景に目を奪われた。


「日本の紅葉とは違うわね〜こんな景色日本にいたら見れないわね。思いきってきてよかったわ〜ねっ、あなた。」


「ああ、そうだな。」


銀婚式の記念に奥さんの希望でここに来たという夫妻を案内すると、奥さんは終始感激してくれた。


だけど旦那さんはそっけないし、楽しそうにも見えない。


夏はカヤックがメインのお客様が殆どで、みんな楽しんでくれたから少し違和感があった。


でも、奥さんの願いを叶えるために一緒に来たんだからそれでいいのかもしれない。


旦那さんは寡黙な人だけど優しさはあるってことだもの…


最後の夜に、レストランで食事してる二人にサプライズでケーキを用意した谷さん。


「ケーキカット二人でされたらどうですか?」と声を掛けると旅行中ほとんど感情を表さなかった旦那さんの表情が変わる。


嬉しさというより、驚くような顔に余計なことをしたんじゃないかと、はっとした。


“今更…”と呟いた旦那さんの放つ空気を察して“結婚式は和装でケーキ入刀はしてないの”と申し訳なさそうに話す奥さん。


「それなら、是非。」


谷さんはゆったりとした雰囲気で旦那さんの答えを待ってたけど、返事は聞こえない。


その姿を見た奥さんが初めて顔を曇らせ、私は胸がきゅっと苦しくなった。


せっかく銀婚式の記念なのに…嫌な思い出を作って欲しくない…


谷さんの後にいた私の足が前へ。ワゴンの横にいくとリボンが巻かれたナイフを手にした。


『奥様がツアー中、ずっと笑っていられたのは旦那様と好きな場所にこれたからです。二人の記念にぜひ…』


そう言ってナイフを差し出した私は図々しかったかもしれない。


沈黙が数秒あって、提案というには強い語気で話してしまったと後悔した時だった。


「まあ、そこまでいうなら…ほらっ。」


私の手からナイフを取った旦那さんが奥さんをせっつくと、奥さんはどんな景色を見たときよりも嬉しそうな顔をした。


少し潤んだ瞳は本当に幸せそう……


ケーキにナイフを入れた所で谷さんがポラロイド写真を撮り旦那さんに手渡すと、笑顔の奥さんはケーキを食べてと勧めてくれた。


取り分けたケーキが乗る皿を手に、少し離れた席に移動して食べはじめたけど…


横に座ってる谷さんは手をつけず私をじっと見てる。勝手なことしたから──


『あの…すいませんでした。思わずあんなこと言ってしまって…』


「羽央さん、泣きそうな顔で訴えてたから旦那さんも困ったんじゃないかな…結果的に上手くいったけど、お客様の前で泣いてはダメ憶えておいて。」


静かだけどきっぱりした口調に“はい”と返事したけど谷さんの顔が見れなかった。


奥さんの笑顔を守りたくて…それは悪いことではなかったと思うけど、感情的になっていたのも事実。


プロ意識が欠けていたってこと…


口には甘いケーキがあるはずなのに味がしなかった。


翌日、夫妻は無事に出発したけれど私の心にはもやがかかったみたいな状態。


ちゃんと笑顔で見送れたかな…


「明日はお休みでいいわ。次のツアーの確認は明後日しましょう。」


飛行機が離陸したのを見届けた後、空港で谷さんと別れて四日ぶりの家へ。


『はぁ……』


ベッドに倒れこむと力のないため息が出た。その原因はわかってる…


“泣きそうな顔で訴えてた”と谷さんに言われたこと。


どうしてそんな顔をしていたか、自分で気付いていた。


羨ましかった…25年もいっしょに生きれることが──…


愛する人と一緒にいる幸せを手にしてるんだから、そんな顔しないでっていう思い。


私にあるのは判が押された離婚届だけ。それがどんなに惨めで辛いか…


そこにサインしないのは総司が好きだから、奥さんでいたかった。


手にした幸せを失いたくなかった──


前向きな気持ちで別れたはずなのに、寄り添う夫婦を見ると嫉妬してしまう。


やっぱり…まだ、総司のこと…でも…


総司の優しさに甘え、自分の気持ちを優先させていた私は考えたことがなかった。


望まれていないのに“妻”でいることは正しいことなの?間違ってるの?


客観的に考えないといけないんじゃないかって──


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