「Angel's wing」
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仕事もしていない僕には時間があるけど、ずるずる一緒にいる訳にはいかない。
「一週間しかここにはいれない。」
そう言った途端、羽央は情緒不安定になって次から次へと質問攻め。
別れるのに僕のことを知った所でどうするつもりなの?
こんな時いつも背を向けてきた僕。縋るような眼差しで見つめられると僕が揺らぎそうになる…
羽央にそんな顔させたくない。優しくしたいと思うのは僕の甘さ。
君を諦めさせるというより自分の気持ちに蓋をしたくて“関係ないでしょ”と突き放した。
別れはやってくるけど急にじゃない。ソマリのことだって乗り越えられたんだからきっとなんとかなる。
死より重い別れなんてないんだから…そう自分に言い聞かせた。
それから君はまた一人で考えこむようになってしまったけど僕は黙って見ていた。
別れると決めたら下手な優しさは期待に繋がって辛くなるだけ。
暗い空気を纏ったまま仕事に行く羽央は、疲れ切った顔でしょんぼりと帰ってくる。
小さなため息を聞くと仕事に集中できずミスをしたのかもと容易に想像できたけど、励ますことも話を聞くこともしちゃいけない。
僕に出来ることは羽央が一人で困難に立ち向かう力、生きる強さを持てるように心の中でエールを送るだけ。
そんな僕も羽央がいない間、この家で一人過ごしていると気持ちが落ちつかない。
天使だった羽央ちゃん。人になった羽央。どっちも君だけど、僕達の関係は目まぐるしく変わっていったね。
その殆どがここでの記憶。思い出にすることはまだ出来そうにないけど、増えることはないんだと思うとなんとも言えない気持ちになる。
時計を見れば羽央の仕事が終わる時間だけど、電話がないからいつも通り帰れるってこと。
だけど、家に帰ってくる時間を過ぎても羽央が戻らなくて心配になった。
急な仕事でも入ったかな。でも残業する時は必ず連絡があるのに…
結局いつもより一時間位遅く帰ってきた羽央は、遅くなった理由を言う訳でもなく夕飯を作りはじめた。
違う所はそれだけじゃない…期限が近づくほど不安そうにしてたけど、今日はなんだか落ちついて見える。
元気って訳じゃないけど一君にでも相談したのかな…伯母さん達に相談するなら、今日のはずない気がしたから。
食事が終わってコーヒーを飲んでいると急に思い詰めたような表情をした君を見て、答えを告げられるのかと思った。
僕の見当違いなら羽央を追い詰めてしまうから“どうしたの”と遠回しに聞いてみると、逃げるようにお風呂に行ってしまった。
こんな風に君に背を向けられたことなんてなかったな…寂しいなんて…ね。
別れるって言ったのは僕なのに…
二人で一緒にいても部屋に流れる空気が前とは違ってきてるって感じるよ。
僕がお風呂から上がってりングに行くと羽央の姿がない。
トイレじゃないし寝室に行ったのかな?僕が寝ようって言わないと羽央は寝室に行こうとしないのに…
寝室のドアを開ければ驚いた顔をした君はバックをぎゅっと握りしめた。何を隠してるの?
言い訳する君の瞳はせわしなく動き嘘なのはバレバレで、何も言えない立場なのに隠しごとがあると思うと真実を知りたくなる。
感情を必死に抑え込み、気にした素振りも見せずに僕はリビングに戻った。
寝室のドアは開かない。あれほど嫌がっていた寝室に羽央は一人でいることができるようになった。
それは明らかに前進だし、もう一人になっても大丈夫かもしれない。他のことは気にしないようにしよう…
翌日、君を送りだした後、洗い物をした僕はふとシンクの下の扉を開けた。そこにはソマリの餌入れと餌が少しだけ残っていた。
餌はそのうち腐ってしまうけど、捨てるくらいなら野良猫にでも食べて貰った方がソマリも喜ぶだろう。
手にすると使ってたのがすごく昔に感じる。ビニール袋にそれらを入れ、ソマリを拾った公園へ行くために外に出た。
日射しはもう初夏のもので長袖じゃ暑いくらいだった。もう五月…カナダに行ってからもう二年も経つなんて信じられない。
親戚を転々としていた頃の一年は長くて早く一人で暮らせるようになりたいって必死だったけど、大人になると一年があっという間。
子供の頃は中学を出れば高校。その後は大学ってレールが当たり前に出来上がっていたけど、大人になったら全部自分で作っていかなくちゃならない。
レールを敷きながら見える未来じゃ…今の僕達みたいに行き先を見失ってしまう。
目指す何かを先に見つけないと、僕も君も望むものとは違う方へと逸れていってしまう気がするんだ。
公園についてソマリの餌入れにザザッとドライフードを出すと、どこからともなく猫が寄ってきた。
だけど一定距離を置いたまま近づかない。餌は食べたいけど、僕を警戒してるんだろうね…
山盛りになった餌から少し離れた場所にあるベンチに座わり、猫の動きをじっと見つめた。
一匹がささっと素早く餌を食べ始めると数匹の猫が寄って行こうとするけど威嚇され、動きを止める。
ここでも恐れず先に進めるものが勝つ。みんな仲良くなんてありえないんだなって思ったけど…きっと違う。
命懸けで一日一日を生きてるからこそ譲れないんだ。
捨てられたのか、野良猫同士が繁殖して生まれたのかはわからないけど、元を辿れば人間の都合で過酷な道を歩むことになったのは間違いない。
それでも彼等は生きることを止めない。鋭い眼差しにぼさぼさの毛…そんな姿を見ると、僕はまだ本気で生きてないなって思い知らされる。
数匹の猫が喧嘩を始め、小さな体から出ているとは思えない声が響き渡ると、僕は決着を見届ける前に公園を後にした。
家に戻り荷物をまとめようとクローゼットを開けると目に入ったのは昨日羽央が持っていたバック。
確かに朝は違うバックを持っていたから、これは空なはず…そう思っていても確認せずにはいられなかった。
中をあけるとやっぱり空…
ほっとする気持ちの中に混じる小さな疑いが外側にある小さなポケットを開けさせ、チラリと見えた名刺を慌てて取り出した。
「なんで…左之さんの名刺が…」
二人とも記憶は消されてるはずなのに自然に再会するなんてどうなってるの?一君だってそうだ…
僕の頭の中で色んな考えが浮かぶ。昨日の羽央の態度がおかしかったのは、左之さんのせいかもしれないって…
どこでどうなったのかわからないけど、羽央に一番会って欲しくない人だったのは間違いない。
左之さんは羽央ちゃんのことが好きだったから…記憶は消されても感覚は残る。
もし二人が出会って懐かしい感情が湧けば、前とは違う関係になることだってありえるんだ。