「Angel's wing」
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総司が帰ってきたのはノートを破り取った翌日。
偶然…?何か感じるものがあったのかもしれないと、二人の見えない絆を見せつけられた気がした。
“おかえり”と声をかけても、私の横を通りすぎた総司は無言でリビングへ向かう。
手ぶらで帰ってきた総司の後姿に嫌な予感がしたけど、確かめる勇気がない私はキッチンへ行きコーヒーの用意を始めた。
コポコポと音を立てながら出来上がっていくコーヒーがいつまでも落ちてくれるように願うなんて馬鹿げてる…
波紋を作らなくなったデカンタに決意を決め、久しぶりに使う総司のマグカップにコーヒーを注いだ。
総司はソファに座ったまま指を組んだ手を腿の上に乗せ、顔だけ窓に向けていた。
コトンとマグカップを置いた音で振り向いた総司は湯気が立ち上るコーヒーを見つめ手を伸ばした。
やっと総司の顔が見れた…
暗い表情だけど痩せた様子もなくてほっとしたけど、会話はないまま…私達の部屋なのに緊張感だけが漂っていた。
ゆっくりとコーヒーを飲む総司の纏う雰囲気は重々しくて声もかけれず、私はラグの上に腰を下ろした。
静かにマグカップを置いた総司は軽く息を吐くと私を見つめた。
「羽央、考えてみてくれた?自分一人で生きるとしたらどうするか?」
想像していたより優しい声色に安心するはずなのに、私の心臓は大きな音を立てはじめた。
私の答えで総司との関係が変わってしまうって…不安がないといえば嘘になるけど、何度考えても私の答えは同じ。
『私は総司と一緒に生きていきたい。それだけなの。何度考えてもそれは変わらないし一人で生きるなんて考えられない。』
考え抜いた答えをはっきりと伝えたけど、総司は私の答えがわかってたようにすぐに聞き返してきた。
「じゃあ、僕が死んだら君はどうやって生きていくの?何の為に生きるのさ?」
死んだらって…そんな極端なことをいきなり言われても…答えられない私を見つめる総司の表情は、真剣そのものだった。
『……なんで急にそんなこと…検査で何かあったの?』
「検査は問題なかった。僕が言ってるのはそういう意味じゃないんだ。君の可能性を僕が邪魔しているのが嫌なんだ。」
『可能性って…私は総司がいれば幸せなんだよ…』
迷いもなくはっきりとした総司の口調におされ私の声は震え、自信がないように聞こえてしまう。
どんなに考えたって…答えは同じ。私の言葉を聞いて総司は一層険しい表情になった。
“わかった”って言って…私が望んでるのは総司との未来なのに…
沈黙が続き私の心臓は握り潰されるように苦しさが増し、あの時と同じ感覚に襲われた。
あのノート…昔の私なら…総司はこんな風につき離そうとしなかったんじゃないかって。
記憶喪失の私を愛してくれたのも、彼女への想いが強かったから…
『総司は私に変わっちゃったのって言ってたでしょ?昔の私のことは愛せても今の私は愛せない?』
私とは思えない挑戦的な声。目を見てそういうと、総司の強かった眼差しは揺らいだ──…
「そういうの重いんだ…」
苦しそうに顔を歪め低い声でそう言った。
緊張していた私の体から一気に力が抜け、俯いた視界は髪で覆われていく。
馬鹿なこと言っちゃった…
『……ふふっ……』
私は笑っていた。笑ってる場合じゃないのに…自分の行動がよくわからない。
総司の声で“重い”と言われたことが…愛してる人に自分の存在を否定されたことが、切なくて悲しくて…
私の願いは叶わないんだって…悲しすぎて笑うしかないなんて…
こんな現実…辛すぎるよ…
私が望むことが総司を苦しめるなんて…
『総司は私にどうして欲しい?』
「これ…」
ジャケットのポケットから出したのは折畳まれた一枚の紙…私は見えた三文字に慌てて開いた。
離婚届…
総司の欄は埋まっていた…私と別れるってこと…本気なの…?
「僕の印鑑も預けておくよ。届けを出したら教えてくれる?」
総司の言葉からはやり直そうという気持ちは微塵も感じられなかった。
『私…私は別れるつもりないよ…そんな一方的すぎるよ…私に悪い所があるなら直すから…』
どうして修復できない所まできてしまったのか、考えつかない私には縋ることしかできなかった。
「君が悪いんじゃないんだ…伯父さん達に証人になってもらうように頼んでおくから。気持ちの整理がついたら持っていって?」
立ち上がった総司に慌てて私は抱きついた。
『嫌っ!一人になりたくない。一緒にいてよ?独りぼっちにしないで…総…司…ぅぁああぁぁ…そんなの…いやぁぁぁあ……』
今まで溜めていた意持ちが言葉になってボロボロと零れおちた。
こんなことになる前に言えばよかった…
総司は前向きな私しか認めてくれない気がして弱い自分は隠してしまうから…
総司は何も言ってくれない…呆れてる?
こういうのが…重いの…?
でも感情も涙も…抑えられないよ…
ふっと私の体は総司の温もりに包まれ、考え直してくれたんだって思った。
「人は誰かの為に生きてこそ幸せなのかもしれない…だけど、人任せの人生を送っても幸せにはなれないと思うんだ。」
でも、耳に届いたのは切なげな声で…私は必死に訴えた。
『だって…総司がいなかったら…私……』
私の肩に手を置き体を離すと“死んじゃう?”と顔を覗き込んだ総司は悲しげに微笑んだ。
「君は僕がいなくても死なない。僕しか知らないからそんな風に思うだけ…離婚したら何の束縛もなくなるんだ。
色んなことをやってみてよ?出会った人と恋をすることだってできる。僕の世界にいることだけが幸せじゃないんだ。」
どうしてそんな悲しそうな顔してるの?私と一緒にいると総司は苦しいんでしょ?
それでも…私には総司だけなの…
『私は総司以外となんて…んっ…
塞がれた唇に涙が頬を伝う…キスしてくれるのに別れようなんていうの?
こんなに…こんなに…私が求めるのは総司だけなのに…
わかってよ…総司。私の気持ち…
ゆっくりと啄ばむような動きが続くたび胸が苦しくなるのは、決して深くならないキスが総司の気持ちだから。
私と距離を置こうとしてる…別れの時が近づいてる気がして総司の服をきゅっと握りしめた途端、唇が離れた。
「泣かないで…羽央。君には笑ってほしいんだ。僕といたら僕が笑う時しか笑えない人になる。君の笑顔は君自身が作るんだ…」
『そんなこと言われても私には…わからない…』
私の濡れた頬を冷たい手で拭った総司は玄関へと歩きはじめた。
『総……』
「来るな!!」
追いかけようとした私を怒鳴る総司の声が耳に届くと、足はピタリと動かなくなった。
「ここの家賃は今まで通り僕が払う。君が引っ越したかったら引っ越していい、君の好きなようにして。」
私が身を震わせたのは開いたドアから入り込む冷たい空気のせいじゃないと思う。
自分では考えられない未来しか残されていないことが恐かった。
扉が閉まり頭では総司が別れるという選択して持ってないってわかっても、心が認めようとしない。
泣いたらこの現実を受け入れたことになる──…
私は唇を噛みしめ、掌をきつく握りしめた。