「Angel's wing」


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会社の夏休みに羽央は一人でカナダへ行くことになった。


『一週間で帰ってくるから。』


「うん、気をつけてね。」


空港まで送ろうかって言ったけど電車の方が渋滞の心配もないからと言われ、僕は玄関で見送った。


楽しそうな君は笑顔で手を振る。羽央にとって好きな場所が僕にとってはつらい場所。


好きな仕事を嘘に使った僕はプライドさえ汚してしまった。きれいなものを全部無くした気がするよ…


一人でぼんやりしていると、君の飛行機が飛び立つ時間だった。


“羽央、楽しんできて”


僕は心の中でそっと呟いた。


今の僕じゃ羽央が一番楽しいと思うことを一緒にできない。


だけど、君が楽しむことを願えるんだ…僕はまだ大丈夫。冷めたコーヒーを口に運んだ。


羽央がいない間、僕は何をするでもなくいつも通りの時間を過ごした。


“ただいま”ときらきらした顔で帰ってきた君を迎え入れれば、また僕達の生活が始まる。


羽央すごく楽しかったんだね。弾む声…カナダでの話を聞きながら僕は君の成長を感じていた。


記憶を失った君が、自立した女性になれたのは、諦めずにがんばったから…僕も逃げたらだめだ。


頭ではわかるけど、元気な君と今の僕じゃ差を感じてしまう。


仕事しないと…カタカタとパソコンを打っていると、いつもなら先に寝る羽央が後から抱きついてきた。


『総司…今日、一緒に寝ちゃだめ?』


それは誘い文句だとすぐにわかったけど、君から誘われたのは初めてだった。


「どうしたの…何かあったの?」


手を止めた僕が振り返えると、さっきとはうってかわってどこか寂しげな羽央の顔が見えた。


『カナダ楽しかったけど…総司と一緒にいるのが私の幸せだから。』


羽央にとっての一番は僕。それだけで冷えていた心に温かいものが流れ込んでくる。


僕の欲しかったもの…はっきりとわかった。


いつもがんばってる羽央をみて感じてたものは嫉妬じゃなかったんだ。


僕は君に一番として求められたかったんだって。


「羽央、おいで?」


恥ずかしそうに“うん”という君を胸に抱き寄せるとシャンプーの柔らかい香りが鼻をくすぐる。


お風呂上がりの羽央から感じるのとは違う熱が僕の中から湧き上がる。


「初めてだね、羽央が誘ってくれたの。」


『誘った…んじゃ…』


頬を染め恥ずかしそうな羽央を見てたらかわいくて我慢できいよ。


『きゃっ…総司!』


君を抱きあげそのまま寝室に行くと、今までが嘘みたいに僕達は自然に愛しあった。


久しぶりに羽央を抱いたけど、快感だけじゃない何かを感じた。


“気”の交換っていうか…僕と羽央が体が繋がるだけじゃなく君のと僕の気が一つに混ざり合うような。


新婚の時とは違う今だからこそ感じたものかもしれないね…


全てがゆっくりと満たされ呼吸一つでさえ深くしっかりとしたものになった気がした。


羽央が僕に力をくれる。そのことを改めて実感した。


朝日を感じて目を覚ましたら、僕の中に前向きな気持ちが芽生えていた。今ならできるかも…


時差ボケがある羽央を起こさないようにべッドから下りた僕は、そっと寝室を出た。


向き合えなかった前の僕。パソコンに入っている榎本先生に褒めてもらえた最初の翻訳を読んでみた。


今とは違う文章…それでも活字から感じるのは情熱と活気。


荒削りな文だけど…昔の自分に負けてる気がした。時間だけが進んでるけど、これじゃ…


初心に帰って一から頑張ってみよう。僕に出来ることはこれだけなんだから。それから僕は気持ちを入れ替え翻訳に向き合えるようになった。


仕事に対する思いを取り戻したからか、いろんな溝が自然にうまっていく。仕事の合間に二人で出掛けるようになって、僕達に笑顔が戻った。


穏やかな日々。季節だけが移り変わり、冬になっていた。


『再来週、会社で忘年会があるの…何をするのかな?』


羽央は忘年会、初めてだね。大丈夫かな…


「年末に一年の苦労を忘れる為にみんなでお酒を飲んだりするんだよ。」


『そっか…そんな意味があるんだ…』


「でも、羽央はお酒飲まない方がいいよ。」


『どうして?』


“お酒弱いから”と言いそうになって、きょとんと不思議そうな顔をする羽央を見てはっとした。


僕の前でお酒を飲んだのは羽央ちゃんで、羽央じゃない。


記憶をなくす前のことを話したのは、一度きりで僕の中では二度と話してはいけないことだって思ってた。


「いつも飲んでないと悪酔いしちゃうからね。まわりの人に迷惑かけたら後で嫌でしょ?」


『そうだね…飲まないようにするね。』


羽央は気にする様子もなく、手帳を見ていた。


その二日前には…出版社の創立パーティーがある。招待状が来たけど僕は迷っていた。


僕達の生活は前と同じ。穏やかに暮らすならあの小説にこだわることないって思うけど心から消えたわけじゃなかった。


社長は僕の小説を読んでどう思ったのか…率直な感想が聞きたかった。そうすることで小説に対する思いを断ち切ることができるはず。


直接会って確かめたい。会える機会があるとするなら…パーティーしかない。僕が本当の意味で前に進む為には、必要なこと。


君に心配をかけたくなくて当日まで言わなかった。


「羽央。今日出版社のパーティーに行くから夕飯はいらないよ。」


『わかった。でも…パーティーって本当に大丈夫なの?』


いつでも君の優しさが僕を支えてくれた。僕は強くなったから大丈夫。


「ちょっと顔を出すだけだから心配はいらないよ。はい、いってらっしゃいの…」


“ちゅっ”と触れるキスをすると羽央は嬉しそうに目を細め、出掛けていった。


閉まったドア。決意を胸に僕はゆっくり深呼吸をした。


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