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□優しい雨
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千本槍を贈って半月──名前は懸命にやりくりしていたが、家計は苦しかった。
お天道様が真上にいった頃、玄関の戸が勢いよく開いた。
『一さん…どうしたんですか?』
「名前、すまない…一緒に来てくれるか?」
一さんは私の右手を握ると引っ張るように外に出た。いつも私の歩調に合わせてくれるのに、急いでどこにいくのだろう…
真剣な眼差しの横顔を見上げても、行き先はわからない。
私は着物を握り少し持ち上げると、早足の一さんに懸命についていった。
山道を登る一さんの歩調は緩まない…私だけが苦しげな呼吸を繰り返していると、一さんの足が止まった。
「ここだ、名前。」
『はぁ…はぁ…あっ、桜…』
少しひらけたそこには、どっしりとした太い幹の桜が一本立っていた。
「村の者に聞いたのだ。この大桜は信じる者を守り救うと。“守り桜”と呼ばれているらしい。」
『本当に力強くて、守ってもらえそうですね。』
私がそう言うと、ほっと安心したような顔をした一さんと根元まで歩いていった。
屋根のように大きく張り出した枝には、薄桜色の花が所狭しと咲き乱れていた。
「少し休もう…」
『はい。お花見…綺麗ですね。』
桜の花びらがちらほら落ちる草むらに座ると横になった一さん。
その額に汗が滲んでいるのを見て、私は懐から手ぬぐいを出しやさしく拭いた。
「すまん、名前…その…横になると桜の趣も違う…ぞ…」
そう言って少し照れた顔。もやのかかった白藍の空を見上げる一さん…かわいらしい…
『くすっ…私もそれじゃあ…』
そろそろと横になると、汗をかいた背中に草の冷たさを感じ気持ちいい。
空からはぽかぽかと暖かい日差しが降り注ぎ、うとうとしそうなくらい…
襟元をゆるめた一さんが私に顔を向けると、ゆっくり息をついた。
「二人で桜を見るのはあの時以来だな…」
『はい、一さんが御陵衛士になられる時…』
私は急にあの時を思い出し、視線を桜の隙間から見える空に向けた。
今でも胸に感じる切なさはきっと一生忘れられない。慕う気持ちがあるのに訪れる別れ…
桜を見上げる一さんに縋ることもできず“待っています”と想いを告げた。
それに答えてくれない背中に声を押し殺し、涙を流した──
「あの時は心配させたな。何も言えなかったのだ。」
ガチャっと重い音がして視線を一さんに移すと、蒼の瞳に捕まった。
「俺は名前の一言に支えられていた。」
『一さん…』
その瞳が戦っていた時を思い出し苦しげな色を見せると、私の心はきゅっと細い糸で締め上げられたような感じになった。
そんな私に気付いたのか一さんはふっと笑みを零し、私に刀を差し出した。
「これを、名前に。生活の足しにしてくれ。」
『それは、一さんの武士の誇りです!』
「今の俺に戦う必要はない。二人で生きていく為だ。」
その瞳は愛が溢れ鋭さのない眼差し…本当に穏やかな幸せがここにある。
私にしか見せないその微笑み…
心が満たされ、溢れる愛しさが涙に姿を変えようとしたけど、私はなんとかそれを押し戻した。
「名前…」
落ち着いた声に慈しみを感じ、笑顔になる私を引き寄せる一さん。
ふわりと吹いた春風に花弁が舞う光景は、残された時間を告げるかの如く──
守り桜が寄り添う二人を祝福し
はらはらと舞う薄桜色の優しい雨
涙の後に訪れる祝言のように
二人は唇を寄せた──
END