創作 参
□最期を彩る無数の笑顔
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いつか来る別れを惜しむかのように・・・
あなたは私にたくさんの笑顔をくれました。
「乙女ちゃん?」
「―――あ、雪麗さん」
「どこに行くの?そんなに慌てて」
雲一つ無い、無風の昼下がり。
それでも彼女は黒橡の長い髪を靡かせ、敷石の上を駆けていた。
「寺子屋です。当番の師匠が風邪でお休みになられたので、私が代わりに・・・」
「風邪・・・って、もしかして、あの?」
「・・・えぇ」
俯き額に射す影が、より一層彼女の憂いを醸す。
「ですが幸いまだ軽いものと聞いています、少し休めば良くなると・・・」
「そう」
巷では、流行り病が蔓延していた。
人から人への感染を主とするそれは、集まる人の数が多ければ多いほど懸念すべき場所となり、彼女―――山吹乙女が師匠として努める手習所も例外ではなかった。
「まあ、だんだんと収まりつつはあるみたいだけど・・・乙女ちゃんも気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
雪女―――雪麗の笑顔を受け、乙女は律儀にも軽く頭を下げると小走りに門の向こうへと姿を消した。
「・・・無茶しないといいけど―――」
ふわりと、花の綻ぶような笑顔の似合う彼女を脳裏に浮かべ、雪麗は山積みの洗濯物を手に縁から屋敷へと上がった。
「雪麗さん」
「・・・あら、鯉伴。どうしたの?」
総大将ぬらりひょんの部屋に入れば、乙女の夫で奴良組二代目頭の鯉伴が書簡を片手に何やら探し物をしているようだった。
よいしょ、と山の洗濯を部屋の隅に置き、雪麗は彼に身体を向ける。
「何か探し物?」
「親父、見ませんでしたか?」
「ぬらりひょん?」
どうやら探し物ではなく探し“者”らしい。
雪麗は小首を傾げると、僅かな逡巡の後にあぁと小さく声をあげた。
「狒々のところじゃないかしら。さっきカラス経由で連絡が入っていたから・・・」
「狒々様か・・・」
「どうしたの?何か厄介事?」
顔を顰める鯉伴に雪麗は問い聞いた。
「いや、そこまで重要でもないんですけど・・・親父に確認をとりたくて」
「あぁ、例の寄合の・・・」
鯉伴が差し出した書簡に並ぶ見慣れた文字に、雪麗までもが肩を落として苦笑した。
「仕方ない、帰ってくるまで待つか・・・」
「遅くはならないと思うわよ?知っていると思うけど、夜は古参の方々で食事だから」
呆れたように言う雪麗の軽口を、理解した鯉伴が笑う。
「分かりました、大人しく待ち―――」
その時だった。
トントンと、壁を叩く雨音に気づいたのは―――。
「あら、雨?」
「みたいですね」
二人は部屋を出て、廊下で外の様子を伺う。
小刻みに響く音よりも、目にした情景のほうが遥かに二人の想像を上回っていて、想定外の空模様に同じように肩を落とした。
「天気雨かしらね」
微かに灰色に淀んだ空の向こうには、確かに西日が射している。
「・・・」
雪麗がふと隣を見遣れば、鯉伴がジッと空を眺めていた。
「・・・鯉伴、それはあんたの手から直接ぬらりひょんに渡さなくちゃならないもの?」
「・・・え?」
「書簡よ。介していいなら私が渡しておくわ」
そう言って、雪麗は微笑んだ。
本当は知っていたのだろう。
先、雪麗の目に触れた時点でそれは秘事ではないのだ。
「乙女ちゃんなら寺子屋よ」
天気雨の上がりを待つ時間。
それはきっと彼にとって―――。
「ありがとうございます。すみませんが、頼みます」
「はいはい。あんたも、気をつけて行くのよ」
「はい」
そして今日は背中を見送ることの多い一日だと、書簡を胸に仕舞った雪麗は山積みの洗濯物に今一度向き直るのだった。
小雨の夕焼け空に似た、それは朱色の番傘。
突然視界いっぱいに広がった空の色に、乙女は肩を揺らす。
「よう」
「あなた・・・」
じわりと、雨に濡れた心が温まるから不思議。
「迎えに・・・?」
「たまには、な」
鯉伴は息をついて、乙女の手をそっと取った。
「・・・ありがとうございます」
「・・・いいや」
きゅっと握り返される指先。
互いの体温を繋いでゆく。
「今日は何を教えたんだい?」
「今日は・・・読書と、十露盤を―――」
「十露盤ねぇ」
「・・・みんな楽しそうでした、とても」
乙女は幸せそうに微笑んだ。
それに、鯉伴も淡く笑む。
会話は尽きない。
「雨、上がりそうですね」
「そうだな・・・。寄り道、していくかい?」
「いいのですか?」
「随分と嬉しそうだな」
「はい・・・」
同じ時を生き、いつか別れを迎えても・・・
最期は必ず二人の場所へと還る。
「乙女・・・」
「・・・鯉伴様」
笑顔が溢れ、今―――。
了