+++百鬼夜行二次

□海女房になる日
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人には生まれ持った体質と言うものが在る。
結婚当初はいつもその彼の体質の心配をして
なるべく共に時を過ごそうと思って居たが

眠い目を擦る私を見かねた彼は床に着く振りをして私が寝息を立てるのを待つ様になったからいつしか彼を放って寝る様になった。

彼は一日のうち、僅かな時間しか眠らない。

朝が来て太陽が東から昇る様に
目が覚めて居間に行くと彼は決まって本に囲まれそんなに不愉快な事が書いて在るならいっその事読まねば良いのにと思う程眉間に皺を寄せて文字を目で追っていた。

「お早う御座います」
聞こえたのか聞こえて居ないのか、
彼はもう湯気の立つ気配もない湯飲みを指先で探るも本に集中しながらのその行為は空回りをしていた。

何度もその男にしては華奢な指先で空を切った。見かねて湯のみを指の届く所に動かす黙ってそれを摑み煽る様に飲んだ。もう茶、と言う程には入っていなかったのだろう。

「お代わりと朝ごはんを…」
「ん…」

そしていつもと変わらない日常が始まる。
いえ少し――

以前の事件を引きずっているのか少し夫の様子がおかしい。

何処が、などとは言えないけれども少し気が抜けていると言うか
心此処に在らずの状態だ。

疲れているのだろうか…力仕事などしないこの人だから体、では無く心が。

そっと彼の目の前に置いている湯のみに熱い茶を注ぐと注ぎ終わったのが本の淵にでも見えていたのかすかさず手を出した
その手に手をそっと重ねた。

「余りご無理をなさらないで下さいね…」
私の言葉に漸く顔を上げた彼は眉間に皺を寄せると
「俺は何も無理をしようとしていない。何時だって唆されるんだ。
心配をしてくれるならあの魑魅魍魎共を門前で追っ払って貰いたいものだ」とそっけなく言って、そして笑った。彼なりの照れ隠しだろう。私も笑った。

「まあ、これで少しの間は平安が訪れるだろう」と微笑み
彼はまた本に目を落とした。
「少しの間――ですか…」彼は何かまた不吉な事が続く予感でもあるのかそんな事を言った。

「厄介事が好きな知人が居るものでね」
「関口さん――ですか?」
「それだけじゃないだろう」
「ご友人に恵まれた方です事」
彼は一瞬、酷く不愉快そうに眉をひそめたがその後少し微笑んだ。

今日は酷く平和な日だった。
古書を求めに数人が来て彼と話しては帰っていく…そんな調子であれよと言う間に日が暮れ、そして私の寝る時間になったのだけれど…

こんな時だから余計にかも知れないが
私が寝ている間に一体彼は何を思い、何を考えているのかふと――怖くなった。

無駄に後ろ向きに考えて自滅していく人ではない。かと言って終わった事だと忘れてしまえる人でもない。

痛みを孕んで――この人は
本と理性と感情の狭間で――この人は…
たった一人の伴侶の私にさえ寄りかかる事も出来ずに眠れぬ夜を何を思って過ごしているのか考えもつかなくて怖かった。

きっとこの想いは結婚当初にした杞憂の様に
いたく無為な感情に違いないと知りながらもふと彼を沈めてしまいたくなった。

縁側に座り涼む彼の背越しに月が見えた。鈴虫の鳴き声が不意に止んだ。

「この所騒がしかったから君も疲れているだろう。早く寝なさい」
「急ぎ仕事でも在るんですか?」
「俺がまだ起きてる事等いつもの事だろう?」
「では少しだけ……」耳元でそう囁きそっと彼の背を抱きしめた。

「ほら、矢張り君は疲れて…」
「疲れているのは貴方でしょうに…」

少し肌蹴た着流しの襟からみえる首筋を舌で撫ぜるとピクリと体を震わせた。

「辞めなさい。今日はそんな…」
彼の言葉を阻む様にする接吻は彼にとって予想外で在る筈なのにまるで待っていたかの様に彼はそれを受けていた。

再び鳴き始めた鈴虫の声と廊下の軋みが混ざる。彼は立ち上がり、撫ぜ回された所為で乱れた襟も肌蹴させたまま
私の手をつかむと布団の敷いて在る寝室に向かった。

寝室に入るなり襖を閉め私の心境を読みたいのか月明かりの僅かな光の中私を見つめる彼の唇を自らのソレで塞ぎ
敷いてあった布団にそっと彼を押し倒した。

自分の帯を取る余裕も無く彼の体を貪る様に激しく愛撫する私に少し困惑した様な彼の吐息が愛おしい。

「何を…考えてるんだ、千鶴子」
「貴方に比べれば…何も考えておりませんわ…」

体が反転して攻守交替。
責められ体の温度と気持ちが高ぶり私は彼の首に腕を回しその体をぎゅっと抱きしめた。

何か言うべきかも知れないけど
長年連れ添った私達には言葉を飾る術がもう無かった。

元気を出せと励ました所で事件で獲た悲しみを癒せないでしょう。愛の言葉を並べ立てた所で心にこびり付いた重みは消え無いでしょう。

だから今は貪りあって…運動をしない貴方を
せいぜい運動させる事が私の愛の証だと知った上で貴方は私に流されてるんでしょう?

「千鶴子…もう…」
「もう少し…」
「君は意地悪だ…」
「これまでですか?」

吐息と彼の懇願する掠れた声が官能を擽る。

「意地も在るが俺は無理をしないと決めて…あッ…」
「いつも背を向けられている仕返し位させて頂きます…」



虫の音が遠い。酷く汗で滑る体が気持ち悪く
一頻り事が終わった倦怠感に暫く動けずに居た。

「君は…何だってこんな…」
まんまと思わぬ力仕事させられた事が悔しいのか
彼は静寂の時を埋める様にそんな問い掛けをした。
「貴方を布団に沈める差し上げたかったので…」
「絵や水…なら兎も角が布団沈めるなんて話、妖怪でも聞いた事が無いな」
「貴方に掛かると私までが妖怪になってしまう様ですね…」

私が気を悪くしたかと心配したのか
彼は私の肩をそっと抱き寄せ、
私はそんな彼の肩に甘える様に頭を擦り付けた。

「私が妖怪なら貴方は四六時中見てくださる事でしょうね。
いっそ妖怪になりたい位です」
「君が妖怪だとすると海女房か何かかな」
「では貴方は海坊主で?」
「いや…俺はゆらり船に浮かぶ海にも空にも陸にも属する事が出来ぬ頼り無く非力な旅人だ」
「私は旅人の説教で調伏される算段ですか?」

私は笑うと珍しく甘える様に私の肩を何度も撫ぜ彼も笑った。

「やすやすと調伏出来る君では在るまい。逆に
引きずり込まれるのが関の山だと思うよ」
「やすやすと引きずり込まれて下さいますか?」

彼は暫く考えると「時にはそんな事も良い」と溜息でかき消して仕舞える程に小さな声でそう呟いた。

「慣れぬ運動をするとこんなに眠くなるのだね」滅多に聞けない無防備な欠伸が聞こえてきた。「御休みなさい」と声を掛けると彼は不意に私の名を呼んだ。

「千鶴子」
「何でしょう?」
「いや、何も無い。御休み」
そう言って私の肩をもう一撫ぜすると彼は寝息を立て始めた。

そっと身を起し、その月明かりに薄っすらと照らされた珍しく無防備な寝顔をずっと見ていた。

考え事ばかりしている彼のその思考の扉が閉じられている事が胸が焦げる程嬉しかった。

休めない彼を休ませる事が出来るのは私だけだと思うから。それこそが私の存在理由とさえ思うから――こうして、偶に誘惑をする事をどうか赦して下さいませね?




【終わり】

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