+++百鬼夜行二次

□狡賢い人
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「貴方は…狡賢いです」

私がそう呟くと道端にちょこんと置かれた石地蔵の如くじっと動かなかったその華奢な肩が少しばかり揺れた様な気がした。

横顔は相変わらずの仏頂面で感情を示さない。

心の中で笑っているのだろうか、怒っているのだろうか個人的な感情と言うものの露出を好まない彼はいつもこうして沈黙を守る。

頁を捲る音が部屋に響く。
庭からは塀の外で人が歩く足音が聞こえる。

この人が黙り込むのは意味が在る。
私は誰よりもそれを知ってる。知っているのだけれど…

あの日もそうだった。

「ただ今帰って参りました」

万感の思いでお帰りになったあの人を迎えた我が家敦っちゃんは控えめに「お帰りなさいませ、お兄さん」と一言言った。

物心ついてから再開した所為か酷く余所余所しい感じを受けながら私は言葉に成らぬ言葉を噛み殺していた。

一家を挙げて、とは言え物の無い時代ですもの精一杯のささやかな宴が終わり、彼は何を思うのかふっと賑やかな家から逃れる様に庭に出て
ぽっかりと浮かぶ月を眺めているのが見えた。

そっと私も追う様に宴を抜けると母親が私をからかう様な視線で見たが私はそれを上快に思い、無視をした。

子供の頃から言われていたし、私も思い込んでいた。私は秋彦さんに嫁ぐ、と言う話は親同士が冗談交じりに決めた事で…彼にとってはそれが如何だか私には分からなかった。

戦争が終わり、それまで後伸ばしにしていた話は障害がなくなった今、具現化しようとしている。

彼からしてみれば妹の面倒を見てくれた家の言う事だから「娘を…」と差し出されれば断る事が出来ないかも知れない。

酷く義理堅い彼の事、意に添わなくとも添った様な顔で私を受け取ってくれるだろう。

そんな虚しい関係は嫌だ、と私は思っていた。それが別の人となら結婚などその様なものだ、と割り切れただろう。私は…何故か割り切れずに居たのだ。

真意を確かめたくて、本心を聞き出したくて
私は彼のカラスの様に真っ黒にそまった背中を追った。

「あ…の…秋彦さ…ん…」

夜の影は思ったより恐ろしく、思わず声が萎縮してしまった。

月明かりは煌々と彼の輪郭を照らし、彼はまるであの世の者の様にゆらりと動いたきり、黙って月を眺めていた。

「ご友人達の安否ですか…?」
「彼らは殺しても死にませんよ。尤も、誰も殺そうとも思って無くても死にたがる者も居ますが…」彼はそう言って鼻で笑った。

庭の草陰から虫の音が聞こえた。
普通なら人の気配がすれば音を潜める筈の虫たちの声が…私は上意に怖くなり彼の背にそっとしがみ付いた。

「怖がる事等何も在りませんよ、千鶴子さん」
「違います。私が怖いのは…」

目の前の影はゆらりと揺れ、こちらへと向き直った。

背なら特に感じなかった距離感が
胸になっては妙に近すぎる様な気がして私はそっと後ろずさった。

「何が怖いのです…」

何が、何て明確な目標を持っては怖がって居ない。只、漠然とこの目の前の影の緩慢さに恐怖を抱いていた。

まるで幽霊の様で…そっと消えていってしまいそうで…彼の心が…その姿が…

「貴方が…」
「千鶴子さん」

彼はわざとなのでしょうか、私の言葉を遮った。私の意を決した言葉は発散される事無く
彼の威圧する様な声が、上快そうな面持ちのその表情でもって…戸惑う私に圧し掛かる様に言葉を紡ぎ始めた。

「ご両親は僕と貴方を夫婦に、と希望していらっしゃる。銃後のゴタゴタが紊まり次第、僕はきっと明確に提案をされる事でしょう…」
「でもあの…」

断りの為の前置きだ、と感じた。
私はそれが怖くて言葉を遮ろうとした。だけど…

「僕は研究機関に召集されてから、沢山の負の遺産を抱えました。妻になる人はきっとその類を被って仕舞うのです」
「でも私は…」

異論を申し立てる暇すら貰えなかった。
その上に目の前の幽霊は眉間に沢山の皺を刻んで痛みを堪える様な顔をしたものだから、私はとても心の中に沢山の想いを持て余す羽目になった。

「早く、死んでしまう事になるかも知れない、それに僕は我侭だ。だから…」

今思えば、彼は変な所で黙り込んだ。
でもその時の私はやっと彼の言葉を遮る事が出来た、と言う喜びに気分も想いも高鳴り、縋り付く様に彼の?の裾を?んでいた。

「良いのです!そんな事!構いやしません!」

私の中の情熱が迸るのを感じていた。
無垢なあの時の私はその自分の感情の高鳴りを自然の物と思っていたのだけれど…

「やっぱり…求婚などされてませんわ、私」
「しただろう。あの月の下で、あの宴の時に」
「したのは私ですよ!されてはおりません!」
「しようと思って話を持って言ったのは僕だからあれは僕がしたのだ」

「私がそうする様に仕向けたのは貴方じゃありませんか!」
「だったら如何だと言うのだ、君は今のこの現状に上満があるから…」
「ありませんよ!」

また…手のひらで転がってる気がして自分で吐いた言葉さえ腹が立ってしまうのは自分の夫がこう言った性質だからだろうか。

「私だって女ですから、言って欲しかったと言う未練が在るだけですよ」

呟く様に言葉をつむぐ私に大きくため息を付き、こちらを向き直り彼は言った。

「例えそれが僕の仕向けた事であっても自然の流れであっても二人の命運は共に合ったと言うだけの話を何故君は…」
「貴方は狡賢いです」

そして冒頭に戻る上毛な言い争いに彼は頭を抱えた。

「愛していると言えば済む話では無いだろう…」
「そんな無為な言葉は要りませんわ、只如何してそんな画策をなさったのかと思って…《

ピクリと彼の肩が震える。私が彼にこんな些細な事で度々彼に突っかかるのはこの瞬間が楽しいからに他ならない。

何事にも動じないこの人の動揺…。

「別に画策では無く自然の…」
「別段喉が乾いてらした訳ではありませんでしたよね?あれだけお茶を飲んでいらした後ですもの…」
「あれは言葉を捜してだね…」
「あら、これだけ流暢にお話になる方がそんな簡単な言葉が見つからないなんて!」

彼は黙った。私は彼ににじり寄った。
彼の背に緊張が走るのを確認する様にそっとその背に垂れかかる様に手を掛けた。

「何が言いたい?」
「あら、ご存知でしょう?」
「責めているのか?」
「からかっているのですわ、本にばかり目の行く亭主を偶には振り向かせたいと思う妻の女心と言う物ですわ」
「趣味の悪い悪戯だ」
「貴方の妻ですもの」

夫婦として重ねた年月は私を大いに進歩させた。だからこそ、今になって分かる。

彼があの時黙り込んで私に一歩踏み出させたのは自ら一歩踏み出すのが怖かったからだ。

私が彼に上安を抱いた様に彼もまた、私の本心を聞きたかったのだ。薄々確信めいたものを懐に抱きながらも上安だったのだ。

上確定要素が残る内は彼は動かない。
だから私は動かされたのでしょう。

「貴方は…本当に狡賢いです」
「僕は…狡賢いよ。そんな事、君が一番知っているだろうだから僕は安心して…」
「安心して…?」

失言だったのか珍しく頬を染めるこの人のその変化に満足したので問い詰めるのは終わりにしようと思う。

「さあ、お茶のお代わりでも…」
「ん…」

卓上においてある急須を持って立ち上がり彼に背を向けると
部屋を出て行く振りして少し振り返った。

「……安心して…甘えられる?」
「千鶴子!」

彼のささやかな叱咤は桜色の頬に無力化され、
私はコロコロと笑いながら部屋を離れた。




【終わり】

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