長編

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大学に入学した三井は、普段通りの日常を過ごした。講義がある日は講義に出て、それが終わればバスケットをした。バスケットは楽しかった。そこに励む瞬間だけは、三井はただ汗を流し、声を出し、ひた走り、戦略を考え、仲間と喜びを分かち合うことが出来た。水戸が三井に言った、普通に生活をして欲しい、と言った意味が、この日々にはそこかしこに転がっていた。三井はその中で、もう邪魔者などいないのではないか、というありきたりな幻想を抱いた。
水戸はというと、K県での仕事を辞める時、引き止められていたようだった。児童養護施設の職員からも預かっている状況で、彼を放り出すことは出来なかったようだ。が、水戸は譲らなかったらしい。そこで、前会社の社長が、友人が経営している東京の建設会社に預けることを決めた。そこは、前会社と同様に寮があり、日雇いで働くという契約で話が纏まった。三井は水戸から、そう聞いた。その建設会社は、上田建設という。
三井は初め、義両親が借りたアパートで届いた荷物を解いている最中、水戸に打診した。このまま一緒に暮らさないか、と。保証人が居ない水戸は、アパートを借りられないからだった。三井はまだ、義両親に保証人になって貰っている。二十歳までの約束だった。その時三井は、水戸が上田建設の寮に入ることを知らなかった。だが水戸は、寮に入る、と言った。そこでこの経緯を知った。それでも三井は、水戸に懇願するように言い続けた。一緒に居たい、と。だが水戸は、首を縦に振ることはしなかった。あんた俺とずっと一緒に居たら馬鹿になる、水戸はそう言った。小突くような物言いに三井は何度か瞬きをした。意味分かんねえ、と返すと、普通に生活しててよ、と続けたのだった。そうして、三井の荷物を一緒に整理しながら水戸は、三井の唇を摘んで離した。すぐ触る、三井はそう言った。水戸は三井の頬を撫で、あんたもだろ、と目を伏せて無精な笑みを見せる。この表情を見せるこの男が、この手でどうやって異物を排除したのか、三井は時折、それが脳裏を過ぎる。だがそれは、容易に通り過ぎた。取るに足らないことだ、二人の間では差し障りの無い問題だった。その後数日間は二人でこの部屋で過ごした。馬鹿になる、言われた理由が分からないでも無くなった。時間も空間も漂う空気さえ、遮るものが無くなったようにただ抱き合うしか出来なかったからだ。熱に浮かされたようにただセックスに耽り、水戸の体温や唾液、精液を含めた体液しか感じるものはなく、三井の声は、掠れて行くものも全て含め、水戸が飲み込んで攫った。唇と喉と掌と、攫われた声はどこに消えたのか、三井は的外れなことを考えた。その思考さえ邪魔者だと、三井はまた、水戸との行為に耽った。それが終われば少しだけ眠り、起きて空腹を感じれば食事をした。水戸が作った簡単な料理は、喉を通過する度に沁みる気がした。炒飯やオムライスや野菜炒め、捻りも何もない食事に三井は、美味い、と言った。彼はそれに、嘘吐け、と笑った。ほんと、と言うと水戸は、舌まで馬鹿になったか、とまた無精な笑みを見せた。このまま一緒に、と口から出そうになるのを、三井は食事と一緒に飲み込んだ。明日から仕事、そう言って出て行く水戸を見送っている時、手紙書くから、と三井は泣いた。声を殺すことなく、ぼろぼろと瞳から涙を流した。こうして泣けば、まだ水戸が側に居るのではないかと打算的な考えがあった。子供の頃もこうして、泣いてしまえば良かったのだ。あの頃は計算などなくとも、涙は武器になっただろうに。年齢というのは恐ろしいもので、泣いた所で水戸は、じゃあまた、と言うだけだった。この打算的な涙でも、水戸が愉悦に浸ることを三井はよく知っていた。
三井は携帯電話を購入した。水戸も同じように、会社から支給されたものを使っていた。ただ、通話はあまりしなかった。メールも同様だった。また文通が始まった。会社の寮と、義両親が借りてくれている賃貸アパートで、距離もさほど離れていない場所での文通だった。電話をしても良かった。ただ、水戸の電話は酷く無愛想だ。その声も悪くはないが、水戸の手紙に比べたら雲泥の差だった。彼の手紙の言葉は、誰にも見せたくない。文字にすら触れさせたくなかった。だから三井しか知らない場所に、保管してあった。今も変わらず会えない日々が続くと、暇さえあれば過去からの手紙を読み返した。子供の頃の他愛の無い文章から、惜しみなく言葉を綴るようになるまでの差異を三井は、一人楽しんだ。この中にはずっと、二人の世界が刻まれていた。
二人とも都心部から外れた郊外に住んでいた。かといって、交通の便が悪い訳ではない。学業も部活動も休みの日は、二人で都心まで出掛ける時もあった。街中を歩きながら、どこかが必ず触れ合っていた。それは手の甲だったり、肘の辺りだったり、二の腕の部分だったり、様々だ。その秘め事のような距離感を、三井は嗜んだ。その反面、会話する口調は普段通りだ。水戸は多少乱雑でもあるし、窘めるようでもあった。三井はいつも通り、口調は荒い方だ。何かを食べる時も、これイマイチ、とはっきりと言う三井に対し、そんなこと言わないの、と宥めるのは水戸だった。三井はいつも思う。この日も同じように、評判のいいカフェに来ていて同じやり取りをした。この男は、幾つ顔を持っているのだろう、と三井は何気無く思った。手紙を書く水戸、邪魔者を取っ払う水戸、三井を掻き抱く水戸、こうして放るように喋る水戸、そのどれもが、三井の心を鷲掴みにして離さなかった。少なくとも三井は、手紙を書く水戸と邪魔者を取っ払う水戸の二つは知らない。不意にふわりと、足元が冷える。感覚が一瞬、麻痺をするように痺れる。ああそうだった知ってた、三井は幼かった水戸の殺意と、自分をレイプしたことを急に思い出した。目付きががらりと黒く濁る瞬間を。今この男は、あの目をどこに隠しているのだろう。三井はカフェでコーヒーを飲む水戸の足元に自分の足を軽く当てながら、残ってしまったイクラとウニと大葉のパスタを食べた。これイマイチだ、また同じように言うと、水戸は多少絡まった三井の足を軽く蹴った。残さず食え、そう言った。水戸の皿の中のカレーライスは、もうとっくになくなってしまっていた。カフェの中では、様々な会話が飛び交っていた。男女の会話、女性同士の会話、声が止めどなく交差する中で、人が容易に溢れているこの土地で、他人の感覚や感情など些細なものでしかないことを知った。水戸の母親が殺人の罪で過去刑務所に入っていたことにも気付いていないだろうし、もう刑期を終えていることも知らない。そして真実などもっと知らない。水戸が人殺しであるという事実を、今この場所でこの土地で、知っているのは自分だけなのだと知った。
三井は大学を卒業した。同時に、義両親とも縁を切った。今まで援助していただいたものは必ずお返しします、そう言うと、何度も謝罪された。ごめんなさい、と。寂しい思いばかりさせてごめんなさい、そう言われた。孤独を感じたことはなかった。水戸が居たからだ。結局、その交渉は謝罪と共に泡末のように消えた。三井はそれから、義両親の連絡先を消した。呆気ない、と感じることさえ無いほど、三井の中から彼等の存在が溶けた。その後は、有楽町の某スポーツショップに就職した。その店は、洋服なども手掛けていてアウトドア用品も扱う店だった。水戸は長らく、上田建設で働いていた。もう四年が経っていた。
それから三年後のことだった。休日なのにも拘らず、その日は早く目が覚めた。もう一度目を閉じようにも眠れず、仕方なくコーヒーでも飲もうと起き上がる。暇潰しにテレビを点け、朝のニュースを見ていた時、殺人事件のニュースが報じられた。コーヒーを飲みながら何気無く聞いていると、三井はその後のテレビから流れる音を聞き、目を見開いた。
「今日未明、東京都M市の路上で男性が血を流して倒れているのを通行人が発見し、警察に通報しました。被害者は市内にある上田建設の社員、浜野祐一さん四十歳で腰にナイフが刺さったままの状態でうつ伏せで倒れており、その場で死亡が確認されています。浜野さんは何者かに背後から突然刺された模様で、警察は通り魔による犯行も視野に入れ捜査をしています」
上田建設、三井は瞬きをした。そして報道された人物の名前、通り魔という発言を聞き、三井はコーヒーカップを持つ手が小刻みに揺れた。掌で口元を押さえ、ゆっくりとコーヒーカップを置いた。この名前は、一度だけ聞いたことがあった。以前水戸から、よく話し掛けてくる職場の人が居る、と言われたのだ。確かその人物の名は、浜野祐一だった。随分前に、水戸の携帯に何度鳴らしても出ないことがあった。その日は仕方なく眠った。すると翌日、折り返しの着信があった。何してたんだよ、と聞くと彼は、飲み会で、と言った。ごめんね、と。女が居たんじゃねえだろうな、とさほど気にもしていないくせに揶揄うつもりで言ったのだ。すると彼は、居た、と言った。職場の人と飲み会だと思ったらそこに居た、と。よくある話だった。水戸が三井以外に興味がないことを、三井が一番知っていた。だから本当は、その話にも三井は興味を惹かれなかった。嫉妬する意味さえなかった。だが、その職場の人って何てやつ?と聞いたのだ。その時に確か彼は、浜野祐一さんって人、と言ったのだった。口元を押さえた三井は、未だに震えが止まらない。テーブルの上に置いてある携帯を手に取った。か細く揺れる手で、携帯の履歴から水戸の名前を出す。口を覆っていた手を外し、深呼吸をした。何度か深く息を吸い込んで吐き、一度目を閉じて開ける。すると不思議なことに、すっと幕が下りるような気配がするのだ。意識が切り取られる。通話ボタンを押すと、すぐに彼の声がした。
『はい』
「オレだけど」
『うん、知ってる』
「さっき、ニュース見て。上田建設の……」
『ああ、そうだよ』
「そうだよって、どういう意味?」
耳を澄ますと、水戸の息遣いまでもが受話器から伝わるようだった。
『どういうって、目の前が邪魔だったから』
そんだけ、水戸はぼそぼそと、独り言のように喋っている。寝起きなのかそうでないのかは知らない。ただ、声がいつもより低い。
「そんだけって?何で」
『あんた、意外とうるせえな』
「え?」
『あの人、いちいち女紹介するって面倒くせえから。なあ、切っていい?』
一瞬だけ、心臓が弾けるほど跳ね上がった。邪魔だったから、異物が侵入したから、だから?また掌が、小刻みに震えた。この男は、目の前が邪魔であれば人を殺すのか。
「今日って仕事休みなんだろ?」
『そうだよ。マスコミが喧しくて仕事になんねえ。夕方から通夜』
誰のせいだお前だろ、三井は単純に思った。
「行くの?」
『そりゃそうでしょ』
「お前が殺したのに?」
『そうだよ』
抑揚も無く一定の口調で、水戸は淡々と話をした。三井はその、冷淡な声と言葉に、心臓の音が段々と早くなる。しばらく無言が続き、唾を何度も飲み込んだ。酷く喉が渇いた。首が痒くて、携帯を持っていない左手で掻いた。この首筋を早く、水戸に触れて欲しかった。異物を取り除いた手で触れて、引っ掻いて欲しかった。だってそんなのオレの為だろ?二人の世界が欲しいって言ったからだろ?だから目の前の蝿を取り除こうとするんだろ?払っても払ってもいつしか湧き出る蝿は、もう現れないのかと油断していてもひょっこり顔を出して来る。また三井は、唾を飲み込んだ。入れた筈のコーヒーが目の前にあるものの、それを飲む気にはならない。喉が渇くのは、情欲が渦巻いて仕方なくて、じわりじわりと疼くからだ。早く会いたい。水戸に。
「会いに行く。今から」
『物好きな人だよね、昔っから』
「そんなんお前もだろ」
『そうでもないよ』
口調が少しだけ、軽くなったように思う。未だに水戸の真意が測れなくなることがある。今の会話の何が、彼の言葉を浮かせたのか。
「どういう意味?」
『早く会いたいって意味』
三井はすぐに携帯を切った。財布と鍵と携帯を持って、水戸の居るアパートに向かった。電車に乗り、最寄駅で降りて、早足でアパートまで向かった。アパートの玄関でインターフォンを何度も押し、うるせえ、と言われるのを待った。鍵の開く音を聞いた直後、三井は自分から玄関のドアを開けた。水戸の姿を確認した瞬間、定石のうるせえも聞かず、何も言わずにその体を抱き締めた。水戸の体からは、血の匂いなどしない。普通の、人の皮膚の匂いがした。首筋に顔を埋め思い切り吸い込むと、水戸の、彼だけが纏う匂いがする。
これがずっと、せめてまだもう少し、続きますように。一瞬だけ脳裏に浮かんだ。三井はふと思う。この感覚、自分にもまだ、ほんの少しでも正常な判断が出来ているのだと知った。水戸が犯罪者であることを、三井の頭では理解はしていたのだった。




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