長編

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平日にこの場所に来たのは初めてだった。
成田によって起こされた侵入行為は、想像以上に三井を苛立たせた。見られることは構わない。どうだっていい。ただそこに、他の人間の感情は要らないのだ。共感は勿論、侮蔑差別軽視など以ての外だ。三井はあれから、すぐに寮に戻った。その後、外出届の紙に養母の通院へ付き添いという虚偽を書き、そのでたらめな言葉に罪悪感を感じることもなく、夕食も不要だと記入欄に印を付ける。一度自室に戻り、鞄を置いた。適当にフローリングに投げると、無造作に音を立てる。多少乱暴だったからか、それは少しだけ大きい。すぐに自室を出て、三井は管理人の職員に声を掛けてから出掛けた。
着いた先は水戸のアパートだった。時間はまだ午後五時半を回った所だ。一応インターホンを鳴らすものの、応えがないことは分かっていた。毎日何時頃に帰宅するのか、三井は知らなかった。よくよく考えてみると、三井は彼の知らない部分の方が多い。知っていることといえばせいぜい、吸っている煙草の銘柄と泊まった時に気付いた朝食はあまり食べないということ、その程度だ。六年の月日を経て、まだ二度しか会えていない。だからよく知らない。予想するに、あまり衣食住に興味が無さそうだ、とは感じるのだが。送られて来た数々の手紙の内容を思い出しても、あまり水戸自身のことは書かれていなかった。好きな食べ物も、何も。水戸がここに帰って来たら聞こう、と彼の部屋の玄関に凭れながら考えた。水戸を待っている間、多少気は紛れたものの、異物の侵入のことは頭から離れない。あの不法侵入者をどうするか、息を潜め、考えながら立っていると、三井は自分の気配が重くなるのを感じた。ぐっと強い重力が天辺から掛かったように、締め付けるほどの得体の知れない空気に、三井は焦点が合わなくなる。あの異物を、あの侵入者を、汚された、ぐるぐると同じ言葉が巡る。同時に、聞き慣れた音楽のように蝉の鳴き声がそこにあった。自然と三井の耳に入って来ている。ひぐらしはまだ鳴かない、日の入の時刻でもない、帰らない。端的で強固な思考と、緩急のある音が交錯し、三井の視線は酷く曖昧になった。
「なんて顔してんの」
低くもなく高くもない声は、どの音よりもはっきりとしていた。首を動かすと、部屋の主が二、三メートル先に立っている。水戸、と言うと彼は、簡単に近付いて来る。ドアに凭れている三井など気にも掛けず、水戸は玄関の鍵を開けた。どうぞ、と言われたので、そのまま続いた。玄関の向こう側に存在する室内は、酷く蒸していた。ドアを閉めて鍵を掛けると、ふっと音が遮断されて閉塞感が漂う。閉ざされた、二人だけの世界になる。
あち、と水戸が言った。電気を点け、エアコンのスイッチを入れる。雑音のように重なった冷たい風が三井の体に当たる。狭い洋室に三井は、風を受けたまま立っていた。水戸が作業着を脱いだ。土木作業員は、夏でも長袖を着用している。怪我予防の為らしい。どこかで以前、聞いたことがあった。そのまま洗濯機へ入れるのか、彼が視界から消えた。再び洋室に戻った頃には、Tシャツとスウェットという装いに変わっていた。水戸はこの部屋に居る時はいつも、この格好をしているように思う。作業中はいつもヘルメットを被っているのか、髪の毛も整っておらず、よく見ると日焼けもしている。元々端整な顔立ちをしていると見た目から感じてはいたのだが、浅黒く焼けた肌は尚更それが際立つように思う。
「なんて顔してんの、さっきから」
「どんな顔してる?」
そういえば玄関先で会った時も彼は、同じようなことを言っていたように思う。その時は特に、台詞に関しては気にも止めなかった。ただ、その声のトーンだけに耳を預けていた。水戸は冷蔵庫まで歩き、缶ビールを取り出した。一本差し出され、飲む?と聞かれた。三井はかぶりを振った。要らない、そう言った。
「おっかねえ顔してたよ、玄関の前で」
俺みたいな、水戸はそう言った。不意に、子供の頃の台詞を思い出した。殺すか、あれが未だに消えない。
「今も?」
「いや、今は違う」
「じゃあどんな?」
「さあ。鏡でも見てきたら?」
持っていたビールを水戸はテーブルに置いた。そして、何か食いに行く?と彼は言う。また三井は、かぶりを振った。外に食事に行く、その言葉で三井は異物を思い出した。三井くん、僕見ちゃったんだよね。男の人と、キスしてただろ?あれを思い出した直後、三井の目の前が騒ついた。焦点が合わず、靄が掛かる。薄い膜が、三井の目の前を覆う。にもかかわらず、水戸の視線だけは容易に感じることが出来た。何やら驚嘆しているのか、瞬きをしていた。
「なあ、水戸」
そう言うと彼は、テーブルに置いていたビールを飲んだ。水戸が座ったので、三井も隣に座る。
「クラスメイトに、成田翔太郎って奴が居て」
「うん。友達?」
三井は水戸を見据え、違うと示す。
「そいつに見られた。この間、高架下でキスしてたとこ」
「そう、ごめんね。嫌だったろ」
水戸は緩く笑った。思ってないよな?嫌だって。三井はそう思った。だがそれは言わなかった。
「邪魔、なんだよね」
テーブルに缶ビールを置いた。その音が酷く大きく響いた。
「へえ、意外だな。あんたもそういう、可愛いこと言うんだ」
「え?」
「おっかねえ顔の理由はそれね、はは。あーあ、そう。なるほどね。何つーか、俺のせいか」
水戸は掌で顔を覆った。覗くことが出来るのは口元だけで、三井はそこだけを見詰める。俺のせい、といいつつ彼は、笑みを浮かべていて、三井は何故だか歯並びのいい口元に目がいった。笑うと意外と幼い、そんな的外れなことを考えた。そうだよお前のせいだよお前が狂気を見せたからレイプしたから奪ったから異物が気になって仕方なくて早く排除したくなるんだろ、口の中で呟いて、三井はしばらく、水戸の顔を眺めた。その内、すっと彼の顔から掌が外される。それもまた綺麗に日焼けをしていて、その節が目立つ指先を追った。
「あーあ、腹減ったな」
「お前の好きな食べ物って何?」
水戸は三井を見た。瞬きを数回して、手を伸ばした。伸びて来る指先を追うと、それは三井の唇に触れる。
「昔食った、肉屋のコロッケ」
「衣がカリカリのやつ?」
「そう。寿くん付いてるって言ってたろ」
下唇をなぞる水戸の指先は、ゆっくりと触れてから離れた。あの頃は、触れられる度に感じた足元の騒つきの正体も分からず、ただ爪先を揺らすだけだった。唇に指が触れる度、その正体を探ろうにも探る箇所すら分からなくてすぐにどこかへ放り投げた。でも今なら分かる。三井は離れて行く水戸の指先を追って捕まえた。捕まえて、それを口に含んだ。舌で転がすように弄ると、水戸と目が合った。水戸の指先を軽く含んだままの三井に、彼はそのまま口付けた。今口内で食っているのは水戸の指なのか舌先なのか何なのか、意識が飛びそうになって分からなくなる。唾液が鳴るのを間近で感じ、長らく繰り返した。上がった息を整える為に、唇を離す。
あいつ、消してえ。
その言葉が口から出たのか出ていないのかは知らない。水戸は何も言わなかった。ただ、また口付けを繰り返し、そのまま触れ合ったことは覚えている。
成田翔太郎が消えたのは、それから約一週間後のことだった。
緊急の全校集会が体育館で開かれたのは、ホームルームの後だった。クラスメイト達は酷く騒ついていた。ねえ知ってる?嘘でしょ、女子達の声は、潜めていてもよく聞こえた。その頃三井は、何も知らなかった。何が嘘なのか、クラスメイトが騒々しい理由を。その時、三井の後ろの席の時々会話をする男子生徒が言った。三井知ってる?成田のやつ通り魔にあったらしい、彼はそう言った。は?と問うと彼は、殺されたんだって、と付け加えた。三井は目を見開き、口元を押さえた。足元が震え、口を覆っている掌も小刻みに揺れてしまいそうになる。それを悟られることだけは避けたくて、三井は立ち上がった。口元は押さえたままでいた。何度かゆっくりと呼吸をして、身震いを抑えようとする。どうしようどうしようどうしよう、頭の中にある言葉はそれだった。全校集会で、立ちながら校長の話を聞くものの、事件の概要ではなく死者を悼む言葉とマスコミへの対応についてが中心だった。そして、未だに犯人は捕まっていない、と。生徒達は騒然とし出した。当然だった。犯人逃走、と来れば次はいつ自分が狙われてしまったら、と誰でも考えるだろう。三井はまた、口元を押さえた。どうしようどうしようどうしよう、それしか頭に浮かばなかった。その日は結局休校になり、生徒達は身を守るように帰宅し始めた。三井はまた、外出届を書いた。前回同様、養母の通院の付き添い、と書いた。管理人には寮に居るようにと施されるものの、三井はかぶりを振った。じゃあ実家に帰省します、と告げた。どちらにせよ、明日も休校だ。管理人は渋々了承し、三井は外に出た。
今日は雨だった。傘を差し、三井は歩いた。ビニール傘の上に、不規則的にばたばたと雨音がする。夏なのに肌寒く、歩いているとスニーカーが濡れた。まだ時間は午後一時を回ったばかりだった。水戸は仕事中だ。分かっていても三井は、水戸のアパートに行く足を止めることはしなかった。しばらく歩き、三井は水戸のアパートに辿り着いた。インターフォンを押した所で、ここに水戸が居ないことは分かっていた。それでも押した。何度も押した。ずっと押し続けた。すると玄関がゆっくりと開く。
「うるせえ」
「何で居るの」
「休みだから」
三井は唾を飲んだ。開かれた玄関の前に足を進め、部屋の中に入った。どうしようどうしようどうしよう、朝からそればかり考えた。その言葉が頭の中に巡ると、足元が小刻みに震えて騒ついた。子供の頃、水戸の指先を感じたあの時のように。ざわざわして揺れて、心も体も覚束なくなる。あれが何者であるのか、分からなかったあの一瞬を思い出した。
「来ると思った」
「何で」
「何となく」
「あいつ、消えたんだけど」
「そう」
どうしようどうしようどうしよう、今朝三井が教室で口元を押さえたのは、震えを収めようと立ち上がったのは、その震慄が歓喜と同列に並べられたからだ。思わず笑みが零れそうで、それを隠す為に必死で抑えた。歯を食い縛ってその喜びに耐えた。彼が邪魔な異物に向けたであろう行為に、三井は初めて水戸に触れられた唇を思い出した。寿くん付いてる、そう言って触れた指先を。触れられる度に幼かった自分は、腹の底が熱くなってざわざわと揺れた。それをひた隠したいが為に、大きな口でコロッケを頬張った。だが今なら分かる。すぐに分かる。熱くなる理由も騒つく体も背筋に走る身震も。あの時感じた衝動は間違いなく、自分の色情を孕んだ愉楽だった。
三井は水戸を抱き締めた。堪らなくなった。今日も付いている寝癖、Tシャツとスウェット、この体がどうしようもなく愛しくなった。早くこの手で抱いて欲しかった。二人の世界を汚した異物を消し去ってくれた、この手で。




三井はその後、指定校推薦枠で東京にある某大学にも受かった。本当は就職しても構わないと考えていたのだが、水戸が言ったのだ。三井さんは普通に勉強してバスケしなよ、と。バスケットは好きだった。引き出しに未だに保管してある大切な缶バッチを眺めては、部活動に勤しんだ。高校を卒業後、養父母には大学を卒業したら縁を切って欲しいと頼んだ。もうここに帰ることはないと告げた。難しければ大学へも通うつもりはないと、頭を下げた。二人はただ、了承するだけだった。養父母は一度として、三井の主張なり行動なりに対し、否定することも憤ることもしなかった。全て肯定した。三井はもう、それを孤独に感じることはなかった。寂しさなどなかった。
水戸は今の仕事を辞めた。三井と東京に行く為だった。有り金を全て持って、少ない荷物で二人はF駅の前に居た。一番重い荷物は何だろう。きっと手紙だと三井は思った。もう数え切れないほどの紙の束は、重さが幾つになったのか計り知れない。これだけは自分で運びたくて、業者には頼まなかった。水戸も同じだった。大きめの鞄に入っているのは、日用品でも何でもない。手紙だ。会いたいと散々綴られた手紙。早く会いたいと何度も書いた手紙。三井は鞄の持ち手を強く握り締める。チノパンのポケットに手を入れれば、そこには缶バッチがあった。カプセルトイの気軽な玩具が、指先に触れて存在の大きさを主張する。
二人で電車に乗り、空いている席に座った。なるべく他人と距離を取り、目立つ空席に座る。揺れと共に動き出す箱に身を委ね、三井は窓の外を眺めた。動き出す景色、流れて行く風景、目に焼き付けることもない。雑踏の中に、一瞬で消えて行くものだ。三井はまた、ポケットに手を突っ込んだ。簡素な作りの缶バッジを取り出し、水戸に見せる。
「なあ、覚えてる?」
「そんなんまだ持ってたの」
「持ってるよ、ずっと」
三井は缶バッジを眺め、幼い頃に一度だけ二人で臨んだ湖を思い出した。静かで音が無い、誰も居ない場所だった。水戸は三井の傷痕に触れた。いつ会えるかも分からないのに必ずまた会うのだと約束し、今こうして、やっと二人で居る。近付いて行く、二人きりの世界。異物はもう居ない。
缶バッジを持っている三井の指に、水戸が触れた。そのまま手を握り、座席の後ろに隠した。握りながらなぞるように触れられ、三井にはもう、それに対して拒絶する為の術を持たない。ずっと触れていたい。
「良かった」
「ん?」
「あんたの手。汚れないで良かった」
何故だろう。目の前が滲む。景色に心を奪われた訳でも、動き始める電車のスピードに慣れない訳でもない。ただ、瞼が濡れた。これが、もう逃れられない場所に立っているからなのか、迫り上がるほどの歓喜によるものなのか、或いは両方か。どちらか分からなくて泣きたくなる。三井は窓の向こう側を眺め、戻らない景色を濡れた目に映した。





9へ続く



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