長編

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土曜日の朝、三井は寮で朝食を済ませ、管理人に外泊届を提出した。自宅に帰省するとの文言を書いた。一泊用の荷造りをして、三井は寮を出た。まだ九時にもなっておらず、暑さも本格的にはなっていなかった。ただ蝉の鳴き声は聞こえたのだが、不思議なことにそれは、ただの昆虫の鳴き声に変化してしまった。鼓膜の奥にも残らない、振動にもならない、ただの音。三井の耳にとってそれは、雑音にすらならなかった。いつの間に変わってしまったのか、軽く小首を傾げたものの、回答は見付からない。それも今は、どうでも良かった。寮から水戸のアパートまでの道程も、三井はきちんと覚えていた。あんなにも覚束なかった足取りだったのに、それでも記憶していたらしい。不思議なことが二つになる。
土曜日までに三井は、水戸にまた手紙を書いて投函した。水戸からもまた、返信が届いた。三井は暇さえあれば、彼の受話器から聞こえた無愛想な声を思い出しながら、手紙を読んだ。そこには確実に、二人だけの世界が描かれていた。紙に書かれている言葉と耳に届く声が重なる時、三井はいつも視界がぼやける。真っ直ぐ見ている筈なのに、どこを見ているのか分からなくなる。この中に居るのは、成長して三井を掻き抱いた水戸だ。それを想像すると、いつも背筋が粟立った。
目の前には、水戸が住むアパートの玄関がある。古びたインターフォンは、あの市営住宅のように黒ずんではいなかった。ひび割れた外観より余程まともなこの部屋の呼び鈴を、三井は押した。少しの間待つものの、物音はしない。もう一度押した。また待った。仕方なく二度ほど連続で押した。そこでようやく、ドアの向こう側から足音がする。鍵を開ける小気味良い音と同時に、玄関が開いた。
「早くねえ?」
水戸は寝起きのようだった。Tシャツにグレーのスウェットを履いて、髪には寝癖が付いている。三井は何も言わず、玄関の中に押し入った。スニーカーを脱ぎ、背を向けて歩き出した水戸に続いた。彼は頭を掻いている。がりがり、と強めに皮膚を引っ掻く音がした。その後欠伸をして、体を伸ばしている。それからカーテンを開け、窓も開けた。蝉の声がする。妙にはっきりと、盛大に聞こえた。
「寝てた?」
「見れば分かるでしょ」
「なあ」
「ん?」
テーブルの前に座った水戸は、三井から顔を逸らし、煙草に火を点けた。まだこの匂いには慣れない。それでも、この仕草は見る度にどきりとする。少年ではないことを知る直接的な要素でもあった。
「お前さあ、手紙と電話違い過ぎるんだけど」
「電話って慣れねえんだって。顔見てる訳じゃないし、苦手」
「なあ」
「ん?」
呼ぶと水戸はこちらを向く。だから呼んだ。ん?と言う水戸はまた、三井の視界に膜を張る。愛想の無い電話と、寄越された真逆の手紙。そこからどうしても、六年前からの文通が脳裏を過ぎる。寿くん、と笑う少年。豹変して人を殺す少年、この部屋で三井をレイプをした男。その三つはどれも同じ人間で、そこには必ず三井が関係していた。じっと彼を見据えても、十五を過ぎたこの男と少年が交錯する時、三井の目の前には膜が出来る。
その時、水戸が灰皿に煙草を押し付けた。安価に見える灰皿と小さなテーブルがぶつかる。多少乱暴に感じるそれに、三井の背はまた、ざわりと揺れる。早く、早く触って。通じたのか、水戸の手が伸びる。それが触れる場所は果たして体であるのかそれとも首筋か、またこの首を締めようとするのか。三井は唾を飲み込んだ。何度も何度も飲み込んだ。揺れる目元の膜は取れず、瞬きを何度もした。伸びた掌が掴んだのは、三井の頬だった。身長の割には大きく見えるその掌で、三井の頬を鷲掴みにする。その仕草は三井の目を一層眩ませる。殺すか、お前はまたそれを言うの?と。
「あんた、どこを見てる」
「え?」
「ガキの頃の俺か?人殺しの俺か?それとも先週、ここであんたをレイプした俺か」
今この部屋は明るい。朝でカーテンも開いていて忙しなく蝉も鳴いている。程良い気温でなぞるような緩慢な風も、三井の体を撫でている。こんなにも爽やかな空気が流れているのに、三井の体には電流が走った。心臓が音を立てる。早鐘のように鳴る。先週の土曜日に起きた行為が、走馬灯のように巡る。三井はまた、ごくりと唾を飲んだ。足元から虫が這いずり廻る。それは長い長い、終わらないほど長い虫だ。蝉の鳴き声は聞こえていた。ただ耳鳴りのようにはならない。ぼんやりと霞みはしない。今目の前に居るのは少年ではない。三井を抱いた、ただの男だった。これは果たして恐怖か歓喜か、いっそ両方か。三井はもう、知っていた。この二つの感情が交錯した時、酷い快楽を覚える。早く、早く早く早く。
「して欲しい。早く」
「素直だね。あんたもイカれちまったか」
「人殺し」
「そうだな」
水戸はそう言うと、目を伏せて笑った。三井が言った意味を、水戸は多分知っていた。どちらが殺され、どの意味を持ってそれを言うのか。男の口付けを味わいながら、三井は体を持ってそれを知る。




「はい、ビール」
「初めてだ」
「飲んでみな、美味いよ」
労働の後は特に。水戸は付け加えるように言った。今が何時何分なのか分からない。窓も締め切られていて、カーテンも閉じてあった。薄暗い部屋で空調が整った場所で幾度と無く抱き合った。慣れてしまった体は、快楽だけを覚え、声が掠れてしまうほど鳴いた。水戸は今日、三井の唇を塞がなかった。何度も何度も食い尽くすように口付けたのは、塞ぐ為ではなかったように思う。
プルタブを開け、最初は少しだけ口を付けた。炭酸が喉に、痛いほど突き当たる。初めて飲んだアルコールは、さほど脳が痺れる飲料ではなかった。
「まだよく分かんねえや」
「そう」
水戸は上半身裸のまま三井の隣に座り、また口付ける。ビールを飲んだ後だからか、冷たい舌が入り込んだ。つい先週初めてしたキスは、もう何度したか分からないほど交わしている。口の中で動く舌に付いて、三井もそれに応えた。一旦離れて行くものの、また三井が追い掛けた。キリがない、と言われたのに、まだ交わし続けた。ここに居て、狭い室内で、締め切った場所で。二人で何度も抱き合って声も抑えないで触れ合って、どうしようもないくらい焦って求めて、昔子供の頃に湖を見に行った時、一心に二人の世界が欲しいと切に願ったことを思い出した。隣に居る少年を閉じ込めてこの場所に置いておけばどこにも行かないのだと三井は、子供ながらに考えた。それが今、この場所なのではないか。誰にも邪魔をされない、汚されない、二人きりの世界だ。
三井はまた、水戸からの手紙を思い出した。寿くんへ、から始まる手紙だった。早く会いたい、と書いた三井に、電話越しの水戸は酷く冷淡だった。その逆手紙の内容は、焦がれて渇望して、罪悪感から打ち拉がれているようでもあった。あれを思い出すと三井はいつも、顔が緩む。
「何笑ってんの?」
「んーん。別に」
奪っちゃった、その言葉は飲み込んで、剥き出しになった水戸の背の傷痕に触れた。
その翌週のことだった。授業を終えた放課後、三井が一人で廊下を歩いていた時だった。背後から震えた声で、声を掛けられる。聞いたことがあるような無いような、要は興味の持たないそれだった。振り返ると、三井のクラスメイトの男子が立っている。彼は成田翔太郎といった。会話をしたことはあったか無かったか、それもよく思い出せない。クラスの中でも孤立した、目立たない生徒だった。三井も群れて過ごすタイプでは無かったが、会話を交わす程度の友人や部活動関係の仲間は居た。が、彼にはそういった、友人の類が居るかどうか一切分からない。それほど三井とは、関わりのないクラスメイトだった。み、三井くん、と酷く遠慮がちに声を掛けられて振り向いたものの、成田はその後喋ろうとはしなかった。何?と一度は聞いた。それでも彼は、目を左右に動かし、的を得ない行動を繰り返した。あの、えっと、そう言って手で制服を掴んでいた。三井は首を傾げた。早く帰りたい、そう思った。何故なら今日はもしかしたら、水戸から手紙が届いているかもしれないからだ。電話や実際に会った時からは考えられないほどの熱情を含んだ文字が、そこには綴られている。だから早く要件を言え。三井は堪らず舌打ちをした。何だよ早く言え。苛立ちを隠せず、三井は多少声を荒げた。すると成田は、今までちらちらと動かしていた目を、一点に集中させる。数メートル離れていた筈の距離を縮め、三井に詰め寄った。見下すように下げた目線の下には、自分を訝しんで蔑むように見る成田が、そこには居た。
「三井くん、僕見ちゃったんだよね。男の人と、キスしてただろ?高架下で。塾の帰りにたまたま見たんだけど、下品過ぎて引いたよ。推薦決まりそうなんじゃないの?」
その言葉を聞き、三井は何か硬い鈍器で頭を打ち抜かれたような気分になる。高架下でキスをした。ああそうだった。外で食事をして、その帰りに待ち切れなくてどちらともなく口付けた。誰も居ないと勝手に想定して。ああ、ああー、そうだった。三井は思わず、息を漏らした。沸点を超えると笑うというのは本当だったのか、と三井は吐き出すように笑った。
「で、何?お前何が言いたい。オレの弱味でも握ったつもりか?それとも言いふらすか。三井くんが男とキスしてましたって。へえ、面白えな」
「……え?」
「言ってみろよ。誰も信じねえよ、お前が言った所で。なあ?違うか?つーか、そんなことどうでもいい」
そういうことじゃない。三井は小さく言った。右の掌で、顔を覆った。そのまま頭を掻いた。そして、ただ思った。汚された、と。汚された侵入された異物が混入した。
排除しないと。この異物を取り除かないと。二人の世界じゃなくなっちまう。
「あーあ。邪魔くせえな」
こういうのを何と言うんだっけ?三井は掌で顔を覆ったまま考えた。水戸が確か、似たような言葉を誰かに。異物を排除しようとした時に言っていた。幼い頃、異物がずっと側に居て、それは酷く邪魔をした。毎日毎日立ち塞がり、二人が会う時間を極力減らそうとするのだ。その有害物質を取り除く為に何か言っていた。
「そうだった。思い出した」
三井は覆っていた掌を外し、成田を見詰める。じっと見据えると彼は小さく声を出し、後退った。あ、あ、と震える声を漏らすように発している。足をがくがくと震わせ、二、三歩後退った後、一旦立ち止まる。三井はそのまま、彼からじっと目を逸らさなかった。直後、成田は縺れるような足取りで廊下を走り去った。その後ろ姿を眺めながら三井は、この異物をどうすべきか、と考えた。下品だと吐き捨てたこの侵入者を排除しなければ、汚される。二人の世界が。
殺すか。水戸は確か、父親という異物に対して、そう言った。




寿くんへ。手紙ありがとう。もう会えなくなると思ってた。あんなやり方してごめん。酷い抱き方してごめん。傷付けてごめん。本当にごめん。それなのに会いたいって言ってくれて嬉しかった。俺も会いたい。早く会いたい。明日にでも会いたい。本当は今すぐにでも会いたい。





8へ続く


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