長編

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一人で帰れるのかと問われたから、三井はぎょっとした。もっとも、何故そんなことを聞くのかと単純に驚いただけだったのだが。帰れる、と言うと彼は、そう、と返しただけで何も言わなかった。じゃあ、と三井が言うと、三井と目を合わせようとしなかった水戸はアパートのドアを閉めた。
外に出るとちょうど黄昏時だった。自然と見上げた空は不思議な色をしている。朱色のようで少し違う。橙が強いのか赤が強いのか、それとも青空が主にあるのか、三井には分からなくて、頭の中に膜が掛かる。どこかでひぐらしが鳴いているのか、小学生の頃水戸と二人で遊んでいたことを思い出した。かなかなかな、と特徴的な鳴き声を聞きながら寮までどの道をどうやって辿ればいいのかと、ただ足を動かしていた。頭が重い。締め付けられるようだ。身体中が酷く怠かった。足が動かし辛くて引き摺るように歩いた。気持ちが悪い吐きそう、蹲る直前、後ろから誰かに腕を掴まれる。
「やっぱり送る」
振り返るとそこには、多少息を切らした水戸が居た。三井の内臓を引っ掻き回した男が、目の前に居た。喉から込み上がるこれは胃液なのかそれとも堰が切れる前の得体の知れない何かか、三井には分からなかった。だからただ頷いて、足を進めた。嘔気は何故だか治っていた。寮ってどこ?と聞かれたので、こっち、と足を進めた。彼はただ、そう、と言うだけだった。またひぐらしの鳴き声がした。まだ二人が小学生だった頃、ひぐらしが鳴く前に帰りなさい、と、養母からよく言われたものだった。じゃあまた明日ね、と水戸は言った。ばいばい、と手を振った掌はまだ小さく、こんなに、こんなにも、男であることを示した存在ではなかった。三井は視線を落とし、彼を見た。真正面をただ見据える目と、三井を抱き締めた腕、触れた掌は乾燥していて熱っぽさは感じなかった。その掌に触れたい、何気なく思い三井は、水戸の掌を眺めてみるものの、そこに触れることは叶わなかった。所在無い自分の掌を、握っては開いた。この指先が、男の体をよく覚えていた。
頬の腫れは、水戸が冷やしてくれた。ごめんね、と彼は言った。それは贖罪の意味だったのかそれとも何の意味だったのか、よく分からなかった。冷たいタオルを何度も何度も、彼は三井の頬に当てた。その内段々と欲しくなって来て、三井から手を伸ばした。この男の全ては自分が握っているのだと、三井はこの時噛み締めた。オレを殴ったからこうしてる、献身的にしてくれる、あの状況では的外れなことを考えた。手を伸ばしたのに水戸は、その手を撫でるだけで何もしなかった。どうして?と聞いても彼は、何も言わなかった。口を閉じて、目を逸らした。
アパートから寮までは、意外と距離があった。二、三十分は歩いたように思う。その間、水戸と会話を交わすことはなかった。空を見上げると、黄昏は移動している。青が深く濃くなっている。三井は一度立ち止まった。夕暮れから夜になる瞬間を、水戸とこうして、この時間に眺めるのは初めてではないだろうか。青の下に辛うじて、一時だけ残るような橙に、三井の耳にまた養母の言葉が過ぎる。ひぐらしが鳴く前には帰りなさい、と。もうあの頃の二人とは違う。
「ここでいいよ。すぐそこだから」
「そう。大丈夫?」
「は?何それ。じゃあ何であんなことしたの」
「したかったから」
三井は水戸の言葉に舌打ちをした。その嫌味のような所業の理由が、三井自身にも分からなかった。苛立っているのか、それとも明確な理由が欲しいのか。何も言わずに三井は、踵を返した。しばらく経って振り返ると、水戸も既に歩き出している。何で。ただそう思った。
寮に戻ると、三井はすぐに自室に戻った。元々今日の夕食は不要にしていた。水戸と食べるものだと考えてもいたし、そもそも食欲が湧かない。身体中が痛くて怠くて熱が消えない。それなのに三井は、自室に入った直後机に向かった。椅子に座り、引き出しからレターセットを取り出した。水戸に手紙を書く為に、三井がいつも使っているものだ。茶色の紙に茶色の封筒、それが大量に入ったもの。そこから一枚取り出し、ボールペンを持ち、三井は手紙を書いた。水戸へ、から始まる文字は、幼い頃から変わらない。水戸からの、寿くんへ、が変わらなかったように。
今寮に着きました。何でさっき言わなかったの?じゃあまた明日ねって。今日だって夜も一緒にメシが食えるんだと思ってた。食欲はないし体は怠いけど、それでも何か言って欲しかった。したかったからって何?何だよそれ。何で何も言ってくれなかったの。さっき別れたばかりなのに早く会いたい、もう会いたい、明日にでも会いたい。今度はいつ会えるのか早く聞きたい、早く会いたい。二人の世界が欲しい、どうしても欲しい。この手紙が届いて読んだらすぐ寮に電話をください。
三井はそれだけを書き、四つ折りにする。封筒に住所を書いて手紙を入れ、封をした。買い置きしている切手を貼り、自室から出た。一度外に出て、寮の側にあるポストに投函する。それからまた、すぐに自室に戻った。そのままベッドに潜り込み、三井は目を閉じた。シャワーは水戸のアパートでしていた。痛む体を引き摺るように歩き、頭からシャワーを被った。シャワーベッドから勢い良く出る湯が床に思い切り弾いた。唾液や精液が流れて行く様を上から見下ろしながら、頭の中が空っぽになって行くことを知った。未だに痛む下半身と、きっと無残に傷が付いた上半身の様子を、三井はよく知らない。大きな鏡で見ていないから分からない。ベッドの中で目を閉じると、真昼間から狭い室内で行われた行為が蘇る。組み敷かれ、押さえ付けられ、殴られ、首を絞められ、恐怖と痛みしかなかった筈なのに、何よりも突出した快楽の波に引き摺り込まれたことを思い出した。水戸の手に探られ、抉られ、一箇所を散々責められ、もう限界だと思えるほど三井は声を出した。ちょっと黙れ、と水戸は口を塞いだ。壁が薄いのだそうだ。それが口付けだったのか掌だったのか、三井は自ら舌を出して舐め尽くしたことしか思い出せなかった。倒錯的にも似た行為が繰り返し行われる中で三井は、このセックスで殺されたのはどちらだったのか、最後に考えたのはそれだった。答えは出なかった。自然と荒いでいく呼吸にとても我慢することが出来ず、三井は水戸の手を求めた。今ここにないから仕方なく、自分の手を使った。水戸はあの時こうして、こうやって、それを思い出して下着の中に手を入れた。今日は何度射精したのかも覚えていないのに、三井の性器はその存在を主張した。それだけでは飽き足らず、後ろにも指を伸ばした。触れるとそこは、傷が付いているのか疾るように痛んだ。短く声を上げると、耳の辺りが騒ついた。自分自身の水気を孕んだ声に、彼との行為が鮮明に蘇る。どこがいいのかちゃんと教えて、水戸は確かにそう言った。そこがいい、と答えた三井に水戸は、少しだけ嬉しそうだった。その絶妙な幼さに三井は、手を伸ばした。この男の運命も感情も劣情さえ全て、全て自分が握っているのだと散々実感する。せざるを得なかった。それなのにどうして、どうして。あの男は何も言わずに去ったのか。送ると言って付いて歩き、したかったから、などとあくまで正当な理由のように言って退け、その場を去ったのか。三井は水戸の、逆巻くほどの激情が見たかった。
枕に顔を埋め、三井は誰にも聞こえないように短く早く鳴いた。小さな声で、水戸、と呼んだ。呼吸が早くなり、弄る指も早くなる。そこがいいそこがいい、脳内で水戸と会話をする。もうイキそう?聞かれたから頷いた。枕が衣擦れの音を立てる。自分の呼吸だけが耳に聞こえる。目を閉じたまま、今度は思い出だけを再生する。水戸は射精する瞬間、ぐっと眉を寄せる。声は出さないで、息だけを乱して吐く。それをずっと、延々と巻き戻して再生を繰り返す。同じ瞬間に自分も吐き出して、ようやく満足した。嫌悪感も罪悪感も無く、残ったのは歓喜だけだった。同じ、同じ、全部同じ。はは、と声を出して笑っていた三井は、奪ったのはオレの方だった、と思い知った。
翌日、三井はほぼ一日中ベッドの中に居た。微熱が出てしまい、身体中が気怠かった。途中水分補給をしてはまた眠り、また水分補給をすることを繰り返した。水戸からの連絡はなかった。早く手紙が届け、と念じた。月曜日は、普通に登校した。授業を受け、部に顔を出し、少しだけボールに触れてから寮に戻った。受験生だからと、一応教科書とノートを出し、シャープペンシルを動かした。集中など出来る筈がなく、三井はずっと、水戸からの連絡を待っていた。土曜日の夜出した手紙はきっと、月曜日には届いている。つまり今日だ。彼は仕事中だろうし、まだ見てはいないだろう。それでも三井は、水戸からの電話を待った。その日の夜、午後八時頃ようやく、寮の電話が鳴ったようだ。部屋がノックされた音を聞いて、三井は座っていた椅子から立ち上がった。電話ですよ、と声を掛けられるのと同時に三井は、お礼の言葉を言って自室を出た。受話器を取り、三井はすぐに声を出した。もしもし、そう言うと、少しだけ低い声で、俺です、と聞こえた。
「手紙読んだ?」
『読んだから電話してる』
三井は手紙に、熱烈な言葉を書いた。早く会いたいすぐに会いたい、と。だが受話器の向こう側の相手は、酷く冷淡に感じる。その素っ気無さに三井は、拍子抜けしてしまった。
『土曜日でいい?』
「は?」
『会うの』
「いいけど」
『そっちに迎えに行った方がいいの?この間送った辺りまで。それともあんたが来んの?どっち』
「いいよ、オレが勝手に行く」
『分かった。じゃあまた』
その直後、通話が切れた音がする。無機質な音が耳に残り、思わず三井は、は?と声を出した。何だそれ、と苛立ち、思い切り受話器を置いた。乱暴な雑音が、廊下に響いた。翌日、寮に水戸から手紙が届いた。夕方寮に戻ると、管理人の男性から三井に手紙を渡される。会釈して自室に戻った。三井はまた、拍子抜けする。鋏で封筒を開け、手紙を取り出した。以前と変わらない、始まりは「寿くんへ」だった。三井は構わずに読み進め、その内容に思わず笑った。三井はこの夜、水戸からの手紙を何度も読んだ。

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