長編

□6
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次は食事をした。適当なファミリーレストランに入り、そこでも随分と長らく話した。一人暮らしってどんな?と聞くと、水戸は瞬きをする。純粋な興味だった。来る?と聞かれたので、迷うことなく、うん、と返した。水戸は立ち上がり、また伝票を持った。そこからは何故だか無言で、ただ水戸に付いて歩いた。十五分程度歩く中、三井はずっと、蝉の鳴き声を聞いていた。わんわんと鼓膜の向こう側まで残るそれを聞きながら、道順が覚えられないほど目の前がぼやけた。時々水戸の後ろを追い掛けるようになる三井は、彼の背を見た。この背には傷が残っているのか、などと的外れなことを考え、自分の傷痕に触れた。なぞると急に、足元が竦む。ぞわりとした悪寒のような感覚が背筋を伝い、三井はまた唾を飲んだ。ごくり、という音まで鮮明に残る。
「三井さん、着いたよ」
「あ、うん」
竦んだ足はそれでも動いたようで、目の前には質素なアパートがある。いつの間にか着いていたようだった。鍵穴に鍵を差し込み、捻るとそこは簡単に開いた。どうぞ、と施されるまま、また付いて歩いた。室内は蒸していて、水戸は最初にエアコンのスイッチを入れた。室外機の唸る音がする。まただ、と思った。また喉が渇いた、と。
「水戸」
「ん?」
振り返った彼を見た時、不意に思う。今朝、約束のあの場所で、何故水戸が自分に気付いて近付いたのか、それが妙に気になった。三井は気付かなかったのに。目印だと言われた黒のキャップを見付けるまで。彼はその目印を外した。髪が額に張り付いたのか、掌で髪の毛をぐしゃぐしゃと乱暴になぞる。その手を三井は、ずっと見ていた。
「喉、渇いた」
「そっち座ってなよ。冷たいお茶入れる」
簡単なものしか作れそうにないキッチンを抜け、狭いフローリングに三井は座った。小さなテーブルとベッドと、他に物が置いていなかった。壁には仕事用と思われる作業着がぶら下がっていて、一人暮らしというのは三井が過ごす寮の部屋と大差ないのだと知る。どうぞ、と目の前に置かれたグラスには茶色い液体が注がれていて、締め切られたカーテンの薄暗い部屋の中では酷く濃く見えた。喉が渇いたのなら、それを手に取ればいい、それなのに。三井の手は今、何故か震えていた。カーテンを開けて欲しい、と思った。今すぐに。この部屋は質素で薄暗くて、決して物は散乱していない。それなのに何故か、あの時の記憶が蘇る。ここには自分と、ずっと会いたかった人殺ししか居ない。動悸がする。段々とそれは強くなる。三井はまた、心臓の辺りを押さえた。帰る、そうだ帰ればいい。その時、三井の頭上に気配を感じた。見上げるとそこには、無表情の水戸が居る。ゆっくりと三井の隣に座る彼の目を見た時、ざわりとまた、足元が揺れた。帰る、それを口の中で呟いた。その時だった。三井の唇に柔らかい何かが触れる。最初は触れるだけだった。それが段々と強くなる。何度も繰り返されてようやく、それが口付けなのだと気付いた。自然と開いてしまう唇に割って、滑った何かが入り込む。初めての感触に理解が出来ず、三井は後退った。上がる呻き声に気分が悪くなり、嫌だと水戸の体を押した。
「な、何して、何で」
「何でってあんた、そのつもりで来たんだろ?」
「そのつもりって……」
「ずっとそういう目で見てたろ」
そういう目って何?三井は言葉にならず、口を開けた。自然と小刻みに震える体には、汗を掻いているのか冷たくなっていた。それでも三井は、水戸の目から逸らすことは叶わず、ただそこを見る。その目を止めて欲しい、三井は訴えるように水戸を見詰めた。伸びて来る彼の手は三井の頬を片手で掴んだ。
「あんたガキの頃からずっと、俺の母親が父親とセックスする時みたいな目で俺を見てる。今日もそうだ、変わらない」
掴まれた両頬はそのまま、水戸は三井の顔に自分のそれを寄せる。また口付けられると気付く直前、悪夢を思い出した。この手がまだ小さかった頃、夢の中で三井は、この掌に頬を掴まれた。そして躊躇なく言われたのだ。
殺すか。
「嫌だ!止めろ!ふざけんなてめえ!」
三井は掴まれているその手を振り払った。立ち上がろうにも足が震え、上手く言うことを聞かない。不恰好なことは承知で、四つん這いで玄関に向かった。早く出て行かないとここから。この閉ざされた薄暗い部屋から出ないと。だがそれは、簡単に憚られる。足首を掴まれ、その強さに三井はフローリングに鼻と額をぶつけた。いってえ、と唸るように声を上げると、引き摺り込まれる。体を仰向けにさせられたと同時に、水戸が覆い被さって来る。掴まれた両手首を振り解こうと、両腕を思い切り動かした。足も一心に動かし、その体を退けようと必死になる。あの目が怖い。逸らせない。この男が殺人を犯す前、三井の夢の中でも同じように、この冷えてどうしようもない目を見せていた。殺される殺される殺される!三井の頭の中で繰り返される言葉は、それだけだった。犯されるでも汚されるでもない。殺される。この男に。
殺される。早く逃げないと。この薄暗い部屋から早く。
ばたつかせた腕が、テーブルに強く当たった。グラスが倒れたのか、がつん、と音がする。茶色い液体が、テーブルの上から溢れて来る。ぽつん、ぽつん、と水音が、フローリングに当たる。六年前、あの市営住宅で聞いた、蛇口から溢れる規則的な水音。それがリンクする。今朝から引っ切り無しに聴こえていた蝉の鳴き声も同時に耳の奥から脳に伝わる。頭に血がのぼる。固まるようにぐっと締まる。耳鳴りが止まない。人殺しだ。この男は人殺しだった。人殺しが目の前に居る。同時に三井は、吐き気を覚えた。込み上げる苦味を必死に飲み込んだ。
「嫌だ嫌だ嫌だ!水戸!」
「うるせえな、黙ってろ!」
顔に衝撃を感じ、三井の腕がまたテーブルに当たった。鈍い音同時に目の前が揺れ、また液体が溢れるのが見えた。ゆっくりと静かに落ちるあれは、果たして水分なのか血液か、三井には分からなくなる。瞬きを何度もして、左頬が熱くなって痺れて来るのが分かる。殴られたのだと気付いて水戸を見ると、彼は眉を顰めて舌打ちを一つした。水戸の体は、深く沈むように三井の体に覆い被さった。身体中の感覚が過敏になるのが自分でもよく分かる。Tシャツの中に入り込む指と、体をなぞる唇と舌と、それら全てが三井の体に入り込む。ぞわりと竦むように動かなくなるこれは、過去に感じた記憶があった。寿くん付いてる、とコロッケの衣を指先で掬われた時。傷痕を緩くなぞられた時。あの頃あの感情が三井には、分からずにいた。それと全く同じような悪寒が、身体中を巡る。
「嫌だ怖い止め……」
細く言うと水戸は、三井にゆっくりと口付けた。舌が口の中で緩く動くのが恐ろしく、ざらざらとした感触が怖くて堪らない。だが、怖い筈なのに性器に熱がこもっていく。三井は顔を逸らし、体をずらした。逃げたい怖い殺される。そう思っているのに硬直した体は動かすことは叶わなかった。うう、とくぐもった声が、口の中で飲み込まされる。どちらの唾液か分からないものも同時に。勃起しているのを気付かれたくなかった。だからまた逃げようとした。口付けから逃れようと、顔だけを動かした。
「逃げるな」
殺すぞ、水戸がそう言ったかどうかは分からない。ただ手が伸びた。ゆっくりと静かに、その手がどこかに伸びる。三井の首元にゆっくりと伸びたそれは、気管を圧迫していく。その力は段々と強くなるのに、指先は愛撫のように緩やかだった。水戸の唇が顎に届く。あの傷痕をなぞる。舐める。舌の表面のざらついた感触を、三井の皮膚は敏感に感じ取った。同時にチノパンのボタンを外され、三井はもう一度叫んだ。嫌だ!と言った。必死に体を捩らせ、そこから逃げようとする。首に掛かる圧力が増す。下着の中に水戸の掌が入り込んだ。驚くほど心地いい温度と強さで扱かれ、あっという間に射精した。声を出そうにも出なかった。喉が苦しいのか、これが圧倒的な快楽によるものなのか、三井にはもう分からなかった。





フローリングに横たわっていた三井は、窓を開けて煙草を吸う水戸の背と横顔を、ずっと眺めていた。ようやく開いたカーテンからは、光が漏れている。Tシャツを脱いだその背中には、傷痕がくっきりと残っていた。三十センチ近くありそうに見えるそれは、あの時どれだけ深く長く抉られたかを知る証拠だった。
三井はあれから、ローションも何も無く挿入された。声を上げることも叶わないほどの恐怖と痛みと苦しさに、三井は抵抗する術を失った。このままじっと、彼の快楽が鎮まるのを待つしかないとさえ思った。叫ぶとまた殴られる。首を絞められる。殺すか、と顔を鷲掴みにされた悪夢が蘇る。目を閉じて、ただ時が過ぎるのを待った。視覚を遮断すると、聴覚が敏感になった。水戸の荒い息遣いが聞こえ、三井は目を開けた。Tシャツを脱いでしまったのか水戸は上半身裸で、単純に背中の傷が見たいと思った。その時三井は酷く冷静で、自分の上に跨り必死に動くこの男を、何故だか幼いと感じた。不意に、文通をしていた頃の記憶が過ぎる。「今日俺は、初めてセックスをしました。特に好きじゃない人です。何となく。セックスって生殖以外に意味はあるのかな。気持ち悪くはなかったけど何も感じなかった。寿くんは今、好きな人は居ますか?」水戸のあの手紙を三井は過去に、何度も読んだ。今こうして、三井の中に入れ、三井の中で出して、三井の行動一つで狂気でもその逆に笑顔も見せるこの男は、とてもセックスに対して「何も感じなかった」と思っているようには見えなかった。
この男の全てはオレが握ってる、三井は瞬間的にそう感じた。この男の快楽も殺意も全て、自分が握っているのだと。胃の辺りから込み上げるこれは決して、嗚咽ではなかった。その時初めて三井は、水戸の背に手を回した。指先だけでも彼の傷痕を確認しようとした。前後に揺さぶられながら三井が水戸と同じように快楽を示した声を上げたのは、それから数分後のことだった。
「水戸……」
「何?」
窓際に座っている彼と三井には、距離があった。狭い部屋なのに、手を伸ばしても届かない。全てをオレが奪ったのに。三井の手の中に、水戸は居るのに。
「前みたいに、呼んで」
「どうしたの?寿くん」
寿くん、と呼ぶ声は、もう六年前の声ではなかった。もう十五になった少年だった。背中の傷をもう一度確認し、三井は自分の左顎をなぞる。
「駅で、何でオレって、すぐに分かったの?」
「分かるよ。何年経っても」
「今、好きな人、居る?」
「居る。ずっと前から同じ人」
生と死の狭間のようなセックスで殺されたのは三井であったのか或いは水戸の方であったのか、今三井の頬に伝わる生温い涙の意味は。殺されてしまったのはどちらか、涙しかこの理由を知らない。





7へ続く


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