長編

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翌日、三井が駅に着いたのは約束の十時より三十分も前だった。寮の朝食が七時半で、それからもう暇なのだ。昨夜も着て行く洋服を決めた後、声変わりをしてしまった水戸の声に違和感を感じてなかなか眠ることが出来なかった。たかが友人に再会する、それでしかないのに三井は、不安にも似た衝動に駆られた。本当に約束をしたのか、あれは現実だったか、と。それでも待ち合わせ場所に早く着いたのは、何かを見定める為だったのか。三井にはよく分からなくなる。
駅構内には入らず、バス停の前のベンチに座った。行き交う人々は多く、バスを待つ人も構内に入る人も居た。その中で三井は、黒いキャップを被った男を探した。当然居なかった。当たり前だ。まだ十時より随分前だ。今日は気温が上がるらしい。ここは日陰になっているからまだいいが、日中は三十度近く気温が高くなるのだそうだ。もう蝉の声が聞こえ始め、三井は思わず空を見上げた。入道雲がそこにはある。蝉の声が耳の奥で、耳鳴りのように残って意識が惚ける。この時期は駄目だ、三井は何気無く思う。脳がどこか遠くへ飛んだ不思議な感覚が、体の中に残った。
黒のキャップを探す。頭と目が一致しなかった。黒のキャップ黒のキャップ、三井は焦点の合わない目で、約束の時間より随分と前から、六年振りに会う幼馴染の姿を探した。すると三井のずっと向こう側に、まだ小さく映る誰かが、直線上に歩いて来る。焦点が合わない。蝉の声が木霊している。脳がガラクタのように機能しない。黒のキャップ、三井は呟いた。それを被った男が、三井の前に居る。
「三井さん?」
顔を上げると、ようやく焦点が合った。六年前の面影を残し、だけれどそれ以上に成長した水戸だった。相変わらず目元が印象的で、すっと通った鼻と、まだあどけなさを残した輪郭。あ、と声を出すと、水戸は目を細めて笑った。寿くん、といわけなく笑う水戸を、三井は思い出した。
「何で三井さんって言うの?」
「だって、ガキの頃みたいには呼べねえよ」
会って一番最初にした会話が、久し振り、でも、元気だった?でもなく、これだ。三井は思わず笑った。立ち上がると水戸は、やはり少しだけ小さかった。そうだ、まだ十五だった、三井はそんな的外れなことを考えた。
「背、伸びたね」
「バスケしてたもん」
「そっか」
「お前あんまり伸びねえな」
「不摂生してっからじゃねえ?」
不摂生ってどんな?と聞きかけたが、何故だか聞けなかった。口調も少しだけ乱暴で、放り投げるようで側に置くように喋る低くなってしまった声に、三井は唾を飲んだ。思わず、喉渇いた、と言った。すると水戸は、暑いから、と答えた。
「どこ行く?」
聞かれたそれに答えられず、三井は水戸を見た。黒のキャップに、黒いTシャツ、デニムにサンダルという酷くラフな格好で、その気取らない姿に三井は、訳もなく心臓辺りの布を掴んだ。自分だってそうだ、Tシャツにカーキ色のチノパンにスニーカー、さほど彼と変わらない。見下ろしたまま三井は、声を出せないでいる。
「どうしたの?」
「あ、いや、久々過ぎて何喋っていいか分かんねえ」
「うん、俺も」
手紙と全然違う、付け加えて言った水戸は目を伏せ、緩慢に笑った。蝉の鳴き声が、三井の耳を過ぎった。また頭が揺れる。
とりあえず何処かへ行こうとどちらかが言い出し、近くの喫茶店に入った。時間はまだ、待ち合わせをしていた十時にもなっていなくて、この時間から開いている適当な店に入った。ここでいい?と聞いたのは水戸で、頷いたのは三井だった。要はどこでも良かった。話が出来るのなら。店内にはあまり音が無く、客もあまり居なかった。空いている席に座ると、やる気のなさそうな店員に水を出され、注文を聞かれた。アイスコーヒーください、と答えた水戸に釣られ、同じの、と三井は言った。キャップを外した水戸は、耳が出るくらいの髪の長さで、前髪は少しだけ長かった。あの頃と印象が変わったような変わらないような、三井はどこか覚束なくなり、目の前にある水を飲んだ。
「あんまり喋んないね」
「まだちょっと、距離感が分かんねえ」
「そう」
不意に水戸は、じっと三井を見据える。どこかを思い切り、ぐっと掴まれたような感覚を覚える。お待たせしました、と置かれたアイスコーヒーの氷が揺れる音が、三井の耳に付いた。
「今どこに住んでんの?」
「結構近く。歩いて十分くらいのアパート」
「寮なんだっけ」
「寮っつっても普通のアパートだよ。一棟全部会社が買ってて、そこに住んでる。家賃も高くないし、給料から引いて貰ってんの。前に居た施設と交流があんのかな、俺みたいな奴でも普通に接して貰えてる」
三井は、へえ、と言った。水戸の手紙には、書いてなかったことばかりだった。思えば彼の手紙はずっと、三井へのことが多かった。元気かどうか、バスケは楽しいかどうか、学校はどうか。そんな内容ばかりだった。自分のことはあまり記されていなくて、思い出す限り水戸が自分のことを詳細に書いていたのは、彼が中学一年の時にセックスをしたと、それだけだったように思う。三井はそれを思い出し、一人ばつが悪くなる。それに引き換え三井は、自分のことを主に書いていたように思う。
「三井さん、楽しい?」
「え?」
「それとも緊張してんの?」
三井はかぶりを振った。三井さん、と呼ばれることは未だに慣れなかった。手紙はいつも寿くんだったし、彼の呼ぶ寿くん、が三井はとても好きだった。それでも。
「すっげえ楽しい。凄え会いたかった。手紙に毎回いつ会える?って聞いても毎回無視だし、正直、てめえ無視すんな!ってムカついてた。だから本当に、嬉しい。元気で良かった。安心した」
「はは、ごめん」
「ごめんじゃねえよ、何で無視してたんだよ」
「あー、いや、やっぱり施設に居る間は会えねえなって思ってて。外出もね、届け出さなきゃなんねえし、最悪同行されたりすんだよね。だからさ、ごめんね」
ごめんね、の言い方は変わらなかった。以前からずっと、十も二十も歳が上のような話し方をする。それも変わらなかった。水戸はずっと、変わらない。三井の前ではずっと、彼は自分だけに信頼を寄せる子供のようだ。あの頃からずっと。
それから三井は、たくさん話をした。自分の話もしたし、彼の話も聞いた。働くことは意外と楽しいのだと教わった。労働して汗を流して、帰宅したらビールを飲むのだと。飲んだことない、三井が言うと水戸は、今度一緒に飲む?と聞いた。飲む、と言うと彼は、目を細めて笑った。煙草吸って来てもいい?と聞かれたので、お前煙草吸うの?と問うた。うん、と頷いた彼は椅子から立ち上がり、伝票を手に持った。あ、と三井が言うも水戸が見ることはなく、外に出る前に会計も済ませたようだった。ドアが軋む音を立て、彼が外に出て行くのが分かる。三井は窓際の席に座っていて、窓越しから水戸が煙草を吸う姿を見た。少しだけ猫背で煙草を取り出して火を点けるその姿勢はとても、二歳歳下の男には思えなかった。黒のキャップを被り、普通の男が普通に喫煙をしているように見える。あれが十五で、施設に今まで居て、三井と六年会わなかった。
三井は彼を見て、急に思った。そうだ、あの男は父親を殺したのだ、と。その事実を思い出し、三井は一人、ぎょっとした。
追い掛けるようにして外に出ると、水戸は外に置いてある灰皿に煙草を押し付けた。照り付ける太陽を見上げて目を細めると、もう随分と高いことが分かる。アイスコーヒー一杯で長時間粘り、長く話をしたように思う。
「腹減ったな」
そう言った水戸の横顔から、嗅ぎ慣れない匂いが過ぎる。そうか煙草、三井は何かに気付いたように、ただ単純に思った。
「何か食いに行かねえ?次はオレが奢る」
水戸は三井を見てかぶりを振った。働いてるからいい、と自然とした笑顔で言う。それを見た三井は、年月の流れを漠然と感じた。掴めそうな入道雲と蝉の鳴き声は例え六年過ぎても変わらないのに。三井はまた、視界が揺れるのを感じた。

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