長編

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寿くんへ、から始まる手紙はいつも、三井を夢中にさせた。
薄くて多少透けた茶封筒には三井の自宅の住所と、裏返すと水戸が今居る児童養護施設ひかりの園の名前とその住所、水戸洋平と書いてあった。三井は毎回、一度裏返して住所と名前を確認する。書かれてある文字ですぐに分かるといえ。どうしても三井は、水戸の名前を見定めなければ気が済まなかった。手紙はいつも、リビングのテーブルの上に置いてあった。学校から帰宅すると、それを素早く手に取り、ただいま、とだけ言って自室に籠った。開ける時はいつも、心臓が高鳴る。脳に熱が集中して、早く開けたいのにわざわざ勉強机に座り、鋏で丁寧に封を切る。慎重に慎重に、中身が傷付かないように。取り出す紙は便箋だったり、ルーズリーフだったり、ノートを千切った紙だったり様々で、それでも薄い茶封筒だけは変わらなかった。始まりはいつも「寿くんへ」で、それを読むといつも、先が気になって仕方なくなる。内容は大概、今日施設で、今日学校で、寿くんは元気?ご飯食べてる?そういった内容だった。三井はそれに対し、同じように、今日学校で、今日家で、メシは食ってる元気してる、と書いた。最後には必ず、水戸は元気ですか?いつ会えますか?と書いた。そこに対する返信は、大概ない。このやり取りはずっと、三井が中学生になっても続いた。育ての両親は、何も言わなかった。三井を責め、止めるように施すことも、かといって、満面の笑みを寄越して手紙を渡すこともしなかった。必要最低限の会話しかしない。三井が話す言葉は、全て手紙の中にあった。
三井はバスケットを続けた。抽斗の中に大切に保管してある缶バッジを眺めては、手紙にバスケットの話を書いた。水戸からの返信は、寿くん頑張ってるんだね、とあった。何通やり取りしたかも分からないほど沢山の手紙を送り、返信を読んだ。届いた手紙は全て、引き出し式のポリプロピレンケースに入れ、時々昔の手紙を読むこともした。乱雑に書かれていた文字が少しずつ変化していて、使用されている漢字も増え、水戸はきちんと小学校へ行けているのだと知る。その内、町の噂も消えた。あの人殺人犯らしいのよ、息子は施設に行ったんだって、歩いているとそこかしこから聞こえて来る声が消えた。その後、水戸の母親に懲役五年という判決が下されたことを新聞で知る。控訴もしないと記載されてあった。三井は素知らぬ顔で、胸を撫で下ろした。
三井が中学生三年生になった時、水戸から、中学生になりました、と手紙が来た。そうかもう中学生、そんなことを三井は考えながらまた手紙を書いた。届く頻度は間が空くこともあった。それでも必ず届いた。三井は手紙が届くと、二日後には必ず返信を送っていた。長い手紙でも短い手紙でも必ず。それからしばらくして、新しい手紙が届いた。「寿くんへ」で始まる文面は変わらなかったが、その下に書いてある文字に、三井はぎょっとした。思わず口を押さえ、辺りを見渡した。誰も見ていやしないのに。「今日俺は、初めてセックスをしました」そこから始まった文字が最初上手く頭に入らず、その行だけを何度も読んだ。五度は読んだだろう。それからようやく、三井は次に進んだ。「特に好きじゃない人です。何となく。セックスって生殖以外に意味はあるのかな。気持ち悪くはなかったけど何も感じなかった。寿くんは今、好きな人は居ますか?」最後締められている文章に、三井は何故だかどきりとした。学校指定のシャツの心臓辺りを掴み、その布の感触を確かめた。好きな人など考えたこともなかった。バスケットには夢中になれたが、それ以外は水戸とこうしてやり取りをすることだけを考えていたように思う。セックスなど論外で、クラスの連中でやったやらないの話をしている同性は居るが、その単語はまず出て来ない。今こうして、布を掴んでいる先に浮かぶ相手が誰であるのか。誰の手を自分が取りたいのか。爪先がまた、じわりとする。
その日の夜、三井は自慰をした。いつもは吐き出すだけの行為の筈なのに、今は水戸が誰かとセックスをしたことを想像していた。あの少年が、女を抱いた。抱かれたのはどんな女性だったのか。女性ではなくきっとまだ少女だ。いや少女ではなく、大人と少女の中間の、だがきっと綺麗で可愛い子に違いない、三井は何気無く考えた。自分の唇と顎の傷に触れた指が、あの手で女を抱いた。どのように、どうやって。真っ暗な布団の中で、真夜中に三井は、目の前がちかちかと細かい光が散らばるほど、その事実に酷く煽動していた。抱かれた方はどうだっただろう、良かったのか悪かったのか、その真意は測れないし三井は知ることもない。好きな人は居ますか?その文面を思い出した直後、三井の掌は精液に塗れた。急激な吐精感に堪え切れず、こんなことは初めてだった。その事実に後ろめたさが残った三井は、手紙の返事がなかなか出せずにいた。返信出来たのは、三井が部活動を引退した後だった。言い訳のように、部活が忙しくて、と書いた自分に目を逸らしたくなった。結局好きな人についても忘れた振りをした返信を書いた。ただ最後いつものように、いつ会えますか?水戸に会いたいです、と書いた。その理由も理解出来ていないまま。一週間後に届いた手紙には、バスケお疲れ様、高校でも続けるの?とあった。いつ会えるか、水戸が三井に会いたいと考えているかは、書かれていなかった。
その後三井は、あるクラスメイトの女子から告白を受けた。バスケしてる所が格好良くて、と言われ悪い気はしなかった。可愛らしい女の子で、クラスでも人気のある人だった。三井はその告白を受けた。特に好きでもなく、かといって嫌いでもなかったが、普通に恋をして、キスをしてセックスをして、順序や段階を経て進んで行くのだと、三井は単純に理解をした。水戸がセックスをしているなら自分もしてみたい、その欲望が少なからずあった。が、それが叶うことはなかった。手を繋いだ時、酷い違和感を感じたからだ。ちょっとごめん、と手を離し、自分の掌をまじまじと眺めた。異常も何もないその手は、何ら変わりない普段通りの姿をしている。結局その後、何らかの理由を付けて手を繋ぐことをやめ、何らかの理由で別れた。どちらもくだらない内容だった。思い出せない程度の、乱雑なものだった。
三井はその後、中学を卒業した。スポーツ推薦枠でF市にある高校に入学した。その高校に決めた理由は、寮があることだった。義両親と離れることが出来るからだ。表向きはバスケットが思い切りしたいと言った。そこに嘘はなかった。ただ、敢えて事件に触れないようにするのも、手紙のことに何も触れられないのも、全てに於いて三井は不自由だった。感謝はしていた。ただ、尊敬することは出来なかった。
高校入学後には寮に手紙が届いた。それも他愛ない内容で、誰かを好きになった、セックスをした、と書かれてあることはなかった。あれきり一度だけだった。三井も変わらず、高校生活の話や、バスケットの話、寮生活について書いた。忙しくも充実した日々だった。それでも毎日缶バッジを見て、毎日水戸のことを考えた。今日は元気だったか、食事はしているのか、生きているのか。それが頭から抜け落ちることは決してなかった。
三井が高校三年生になった時、水戸がF市にある建設会社に就職したことが分かった。日雇いの契約ではあるのだが、その会社が持っている一棟のアパートの寮に入っていると。そういった内容の手紙が届いた。三井はその頃、部活動ばかりの日々だったが、同じ市内に居ることに胸が踊った。三井はすぐ、部活を引退したら会おう、と書いた。返信は割と早く届いた。そうだね、とあった。寿くんが落ち着いたら、と書かれてあり、一層日々の生活に励んだ。部活動を引退し、土日が空いた。指定推薦校の幾つかから推薦が来ることを予測して、平日は部活動に参加をする。そのような日々が続いた。寮に住む生徒達は、部活動が無くなると土日には帰省する人間が多かった。が、三井はしなかった。ずっと寮に居た。手紙がいつ届くか、寮の電話番号も手紙に記していたから、万が一寮に電話が掛かって来たら、と考えたら帰省することは憚られた。もっとも、義両親と会うことも避けていたのだが。
その日は暑くなって来た七月の中旬だった。水戸からの手紙は、来たり来なかったり、ただいつ会えるかはやはり記されていなかった。金曜日の夜、既にベッドに横になっている。寮の小さな一人部屋の網戸からはそれなりに心地良い風が吹いて来ていて、三井の体に程良くさらさらと当たる。目を閉じてしまいそうだった。瞼が落ちる瞬間、部屋をノックする音が聞こえた。はい、と言うと瞼が持ち上がる。起き上がると、管理人の職員がドアから顔を出した。電話ですよ水戸さんって方から。初老の男性がそう言った直後、三井はベッドから降りた。ありがとうございます!と大きな声を出したのが自分でもよく分かる。三井は一階まで階段を駆け下り、事務室の前に置いてある受話器を取った。だが、この向こう側に居るのは、六年前の水戸ではない。もう中学を卒業して働き始めた青年だ。少年では決してないのだ。三井は一度、ごくりと唾を飲み込んだ。そして声を整える為、二度ほど咳払いをする。それが相手に聞こえているかもしれないのに。受話器を耳に当てると、小さな電子音のような、か細い音がする。酷く静かだった。
「……も、もしもし。水戸?」
『水戸です。久し振り』
声変わりをしてしまった彼は、寿くん、と言って笑う少年ではなかった。三井がしたことがないキスをして、セックスもした男。そしてそれを、何てことなかった、と言って退けた男。三井はもう一度、唾を飲み込んだ。受話器を持っていない左手が疼いて、手持ち無沙汰で何かを探す。仕方なく、電話の冷たい箱を触った。
「元気、だった?」
『うん。そっちは?』
「元気だった」
『急だけど明日会える?ごめんね、ずっと会いたいって言ってくれてたのに』
え、と三井は小さく言った。拒絶ではなくそれは、驚嘆だった。手紙の最後にいつも付けていた言葉を水戸は、覚えていたのだ。
「会える。会いに行く。どこがいい?どこにする?お前今F市だっけ?一緒じゃん。駅にしようぜ、分かりやすいから」
『はは、あんたは変わらないね。じゃあ十一時でいい?俺、黒のキャップ被ってるから。目印に』
遅くねえ?と三井は思った。十一時なんて遅い、とそう言った。じゃあ十時、水戸はそう返した。分かった、と言うと最後水戸は、じゃあ明日、と言ってすぐに電話を切った。その落ち着いた様子と、受話器越しに聞こえる電子音に、これが現実かどうか分からなくなる。




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