長編

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バスに乗り、辿り着いたのはY町にある湖だった。バスから降り、少しだけ歩いた。水沿いで緑に囲まれているからか、二人が普段過ごす町よりも仄かに気温も低いように思う。木陰が目立つ道が続き、歩くのも苦にならなかった。バスの中で二人は、話すことをしなかった。一番後ろの席に座り、窓の外を眺めた。水戸は小さなビニール袋を持っていて、その中身を三井は聞かなかった。例え知っていたとしても。
山道を少しだけ歩いて着いたそこは、平日の昼間だからか誰も居なかった。大きな石や小さな石が転がる先にだだっ広い湖が広がっている。波は無くて寄せて返すこともなかった。ただ茫漠に広がっていて、終わりが見えない。境目が無い、色の際も見えなかった。静かで音もしない。三井が水戸を見ると、彼もその景色を臨んでいる。二人以外誰も居ない、二人だけの世界。あの日来る筈だったこの場所に、皮肉にも今、全てががらりと変わった後でここに居る。
「コロッケ食べる?」
「え?」
「買って来たんだ。二つだけど」
ごめんね、水戸は目を伏せ、またごめんねと言う。何でごめんね?と三井は聞いた。あんたあの日四つ買って来たでしょ?水戸はそう返した。知ってたんだ、とは言わなかった。いつ知ったのか、それも三井は、聞かなかった。砂利の上に、二人は座った。どちらともなくしたことだった。食べる?とビニール袋を開けた水戸から手渡されたそれを見るまで、三井は何の食欲も湧かなかった筈だ。その上揚げ物だ。ここの所ずっと、水分とほんの少しの糖分しか口にしなかった。それなのに何故か、目の前に差し出されたコロッケを見た三井は、酷い空腹を覚えた。ゆっくりと齧り、咀嚼して飲み込むと、目の前が滲んだ。訳もなくただ、込み上げるものが止まらなかった。美味しい、と思った。こうして食べることが。
「寿くん、付いてる」
水戸の指先が伸びる。あの指が唇に触れる。包丁を上から下に振り下ろしたあの手が、三井の顔に伸びる。触れて離れた時、足元がまたざわりとする。昨夜見た悪夢、血塗れの掌で顔を掴まれた時と同じような悪寒が、三井の背中に走る。恐怖じゃない、怖い訳じゃない、じゃあ何で?
「水戸」
「何?」
「オレ」
「うん」
何を言おうとしているのだろうか。滲む目のせいで、湖が揺れて見える。空の青と湖の色がぼやけて境目が分からない。色が無くて揺らめいて見える。こういった現象を何と言ったか。水戸ならきっと知っている。きっと。
「お前を人殺しだと思ってた。毎日あれが夢に出て、オレまで殺そうとする。顔を掴んであの時みたいに『殺すか』って言うんだ」
三井は目を擦った。それでも滲んで来る瞳から溢れるのは、涙なのかそれとも堰が切れたように溢れ出る感情か、何も分からなくなる。水戸から渡されたコロッケをまた齧り、咀嚼して飲み込み、分からないままかぶりを振る。怖いんだ、怖い。でも怖くない、そうじゃない違う。唇に触れられた時、夢の中で顔を掴まれた時、感じたものは恐怖ではなかった。それをまだ、三井は理解出来ないでいる。
「怖い、怖くない、もうよく分かんねえ。ただ夜目が覚めて、殺されるって思うのにお前に、手を繋ぎたい助けてって探すのはお前のことで、違う、ごめん、お前が居なきゃオレが殺されてた、それなのに人殺しなんて思ってごめん」
支離滅裂な言葉と、ただ謝罪したいと思った言葉と、重なった全ては自分でさえ掴み切れないものの羅列で、水戸に伝わったかどうかも分からない。顔も見ることが出来ない。辺りがぼんやりと霞んで、出て来る涙を三井は、自分で拭うことしか叶わなかった。どうしたら、どうすればいいのか。顔を上げると、湖が見えた。色が無くてぼやけて見える揺らめきを、何と表現すればいいのかさえ。これを水戸に自分は、聞けるのかすら分からない。
「俺が殺したあの男は、いつか殺そうって思ってた」
「……え?」
「父親じゃないんだ。誰が俺の本当の父親なのか俺も知らない。いつからか殴られて蹴られて、ずっと死んでもいいって思ってた。俺が居ない方がいいって、ずっと。いつか殺してやるって毎日考えてた。だからあんたのせいじゃない。ごめん。こんなガキなんだ。でもあんたが居たから、俺は今ここに居る」
座ると頭の位置があまり変わらなかった。目線も近くて、瞬きをする瞬間も見える。もう一度目を擦ると、水戸の目が見えた。今はあの夢のような、ガラス玉じゃない。
「あんな所を見せてごめん。許されることじゃない。ごめん、ごめん寿くん」
かぶりを振れば良かった。でも出来なかった。だからもう、瞬きするしか出来なかった。ただ黒目がちの水戸の目から逸らさない、それしか出来ない。
「俺ね、O市の施設に行くんだって。今までは町の簡易施設みたいな場所に居て、今日の夕方に相談員の人と一緒に行くことになってる。だから今日でお別れ。付き合ってくれてありがとう。寿くんはちゃんとご飯食べて、バスケして、普通に生活してよ。学校も行って、中学卒業したら高校行ったり大学行ったりすんのかな」
「もう、会えねえの?」
「そうだよ」
「い、嫌だ」
「あのさ、これあげる。本当はあんたにあげようと思って持って行ってたんだけど、あんたがすっげえ嬉しそうにツイてるって言うから渡せなくて」
ごめんね。水戸はそう言って、三井の掌に何か小さな物を乗せる。握られたそれは程良く熱を孕んでいて、水戸が手を離した時、初めて見える。
「あ!缶バッチ!」
「そう。一発で出てツイてるってやつ。だからこの先、あんたはツイてるよ」
三井が好きなNBAの選手のユニフォームが描かれた缶バッチ。商店街の玩具屋にしか置いていないカプセルトイだ。三井が何度しても出て来なかったもの。
「なあ、本当にもう会えねえの?」
「だって俺、人殺しだよ?今はあの母親が捕まってて上手く逃げてるけど、この先どうなるかなんて分かんねえ」
だからお願い。水戸は最後、懇願するように言った。何?と聞くことは憚られた。水戸の指が伸びたからだ。
「触ってもいい?」
「え?」
「傷。そのガーゼの下」
いいよ、と言いかけた。すぐにでも。だけれど三井は、かぶりを振った。
「触るな」
そう言うと水戸は、口を噤む。
「触るならいつかまた会うって約束しろよ。その施設から手紙書いて、オレに近況報告しろ。絶対に。今はどうしてるのか、何をしてるのか、また会えるならいつになるか。約束して」
「俺、もう会わないって言った……」
んだけど。水戸が怯んだように言えど、三井はかぶりを振った。それは本意ではないことを示した。するとようやく、水戸は笑った。二人で遊んでいたあの頃のように、全幅の信頼を寄せる子供のような笑みを見せる。それを合図に三井は、左顎のテープをゆっくりと外し、ガーゼを取った。縫った?と聞かれ、多分と答えた。お前の背中は?と三井が聞くと、縫ったよ、と返された。
「もう乾いてる。痕残るかな」
「さあ、どうだろ。お前は残るのかな」
「さあ、考えたことない」
水戸の指が伸びる。伸びる指をずっと見る。近付くとそれは、視点が合わなくなり段々とぼやけてくる。色が何重にもなり、これが肌色なのか何色なのか、三井には分からなくなる。顎に触れた瞬間、三井は体を引いた。なぞられた時、爪先が覚束なくなる。揺らして伸ばしていると、ゆっくり触れられた箇所が熱を持ったように痺れて来る。これが痛みなのか何なのか分からず、堪らなくなった三井は、嘘を吐いた。いて、と言うと、水戸はまた、ごめんね、と言った。どこか嬉しそうで、三井はばつが悪くなる。また爪先がざわざわと揺れて、目を逸らした。何処と無く所在無くて、三井は座ったまま足を伸ばして爪先をぶらぶらと揺らす。どうしたの?と聞かれるも、何でもない、と答えるしか出来なかった。もっと触れたい触れて欲しい、と頭の片隅に思う。この感情が何者であるのか分からず、これが一番怖いと思った。今この時間、この瞬間が終わればもう、会うことはなくなる。この先いつ会えるのか、それも今は見当が付かない。これまでのように、また明日、と言うことが出来ない。水戸の声も話を聞くことも、無くなる。
「なあ」
「ん?」
「さっき湖がぼやけて見えてさ、空と一緒に混じって全部の色が無くて揺れてる感じ。何ていうんだっけ、そういうの」
「ああ、陽炎?」
「そう、それだ」
この陽炎の湖をもう一度二人で見るのは、この先いつになるだろう。きっと来ない、三井は漠然と考え、水戸が触れた痕に重ねるように、自分の傷痕を触れた。二人の世界、その証拠のように。





6へ続く


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