長編

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ご飯食べられる?要らない、このやり取りを何度したか分からない。ご飯が食べられないならアイスクリームやプリンでもいいから水分だけでもいいから、育ての母に言われた三井は、仕方なく言う通りにした。一口二口、ぼそぼそと口の中に入れ、また自室に籠った。事件後に通うことになっている精神科の医師から、しばらく学校はお休みしましょう夏休みにも入りますから、と言われてから早一週間。三井は毎日思考が停止したような日々と時間を過ごしていた。
自然と蘇る記憶が喉に込み上げる度、三井はかぶりを振る。言葉にして説明出来るほど素直に思い出せることはなかった。水戸の母親からは、刑事に聞かれても怖くて目を閉じていたと言いなさい見ていないと言いなさい、と言われたことは朧気に覚えていた。実際その通りだったのかもしれない。そのくせ、あの凄惨な光景だけは簡単に取り出せた。だが口に出すと嗚咽が漏れそうになり、形容し難い混乱した目眩に襲われる。だからあれは白昼夢か何かで、本当は目を閉じていて自分が作り上げた幻なのではないかと、現実は目を閉じていて見ていなかった、などと考えた。何が起きたのか、何を見たのか。あの場所で。蛇口から溢れる水音と蝉の声だけが、耳の奥に延々と残っていた。耳鳴りのようだった。ずっと消えない。
無性に手を洗いたくなる回数が増えた。白昼夢かもしれないのにあの時見た血の匂いがこびり付いて取れない気がして、何度も何度も手を洗った。石鹸でごしごしと擦り過ぎて、手の甲は赤く腫れ上がった。赤を見るとまた思い出して愕然とする。あれは違う、悪夢で白昼夢で夢で幻で、「寿くんごめん」も「殺すか」も水戸のあの目も湖じゃなくて血塗れの床も全部全部、あれは夢だった。手の甲から目を離し、顔を上げた。その先には鏡があった。顔色が悪い、と他人事のように思う。そのまましばらく焦点が合わないまま眺めていると、左顎にガーゼとテープだけが妙にくっきりと映り出す。すぐに目を逸らした三井は、急激に喉の先に苦味を覚えた。込み上げる吐き気に耐えきれず、そのまま嘔吐した。もっとも、食べていないから胃液しか出ない。嗚咽を漏らすと、育ての母が大きな足音を立てて近寄って来る。ばたばたとした背後からの音に三井は、フローリングが揺れるほどの騒音に聞こえ、思わず耳を塞いだ。聴覚だけが酷く敏感だった。大丈夫?大丈夫?大丈夫だからね、不安だけを持った声に三井は、酷く攻撃的な感情が押し寄せる。てめえの声が一番大丈夫じゃねえんだよ黙ってろばばあ。一瞬過ぎった荒んだ言葉に、唇を噛み締めた。摩られている背中に感じる体温が鬱陶しくて、三井はそれを遮るように体勢を変えて蹲る。目だけを上げると腫れ上がった手の甲が見えた。怖い寂しい辛い吐き気が治らない、嗚咽を繰り返しながら考えるのは誰のことだ。手を繋いで欲しい、瘡蓋をしょっちゅう掻いている人殺しに。人殺し、人殺し、人殺しなんだって。また胃液が口から漏れ、手で押さえることも出来なかった。生理的に溢れる涙で目が霞み、そのぼやけた視界から胃液を懸命に拭く育ての母が見えた。消えて無くなりたいと、ただ思った。
あの事件後、あのアパートの中で起きた出来事を三井は、断片的にしか思い出せないでいた。だけれど何が起きたか二つ歳下の少年が何をしたか、そのシーンは映画を観ているように鮮明で、頭の中でしょっちゅう流れていた。が、その後のことはよく覚えていない。立ち上がれなかった三井を他所に、物事は淡々と進んでいた。少年の母は少年が使った包丁の柄の部分を丁寧に拭き、握り直したような気がする。新しい洋服を持ち出して流れている血を塗りたくっていた気がする。やって来た刑事に、経緯を説明していた気がする。三井はその後、病院へ行った気がする。任意で受けた事情聴取にも、怖くて目を閉じていた見ていない思い出せない怖くて、と震える声でぼそぼそと呟いた、気がする。酷く断片的に残るそれらは、頭の中のスクリーンには流れなかった。ぽつり、ぽつり、と蛇口から規則的に溢れる静かで大きな水音のようでもあった。その逆、延々と鳴き続ける蝉の声のようでもあった。別々の音が同時に、ずっと三井の耳の奥に残っていた。
そして少年は、ずっと黙っていた、気がする。血塗れの横顔がいやに鮮明に残っている。
三井はあれから、毎日のように夢を見る。あのアパートで起きた出来事が、毎日違う形で現れる。この日はあの場所で男を滅多刺しにした水戸が、三井を見た。そしてあの目で三井を見据え、近寄って来るのだ。座り込んで動けない三井をじっと見る瞳はガラス玉のように真っ黒で、光も何も見えなかった。その瞳に何が映るのか、それさえ分からない。こんなにも距離が近いのに。部屋の中は薄暗く、台所にある小さな窓からも光は入って来ない。昼間じゃなかったのか、と疑問を一瞬だけ持ち、三井は辛うじて首を動かした。硬直している部位を動かすのはこうも努力が必要なものなのか、ぎりぎりと食い縛るような神経を引き千切るほど強い何かが身体中に残る。水戸の向こう側には、俯せになって血塗れの男が見え、そのまま三井は固まった。動けなくて水戸の瞳も見ることが出来ない。すると水戸は三井の顔を片手で挟むように掴んで近付けた。自分の顔が滑るのが分かる。血塗れの手で掴まれたからだ。あの手が、三井の自由を無くす。しばらくそのまま、見詰め合った。呼吸が上手く出来ない。爪先が酷く騒ついて、下の辺りから悪寒が走る。順に上って行き、頭の天辺までざらざらと揺れる。心臓が鳴る。それに反響するように、体が小刻みに揺れる。
「殺すか」
その瞬間、三井は目を開けた。体を起こすとそこは真っ暗闇の自室で、身体中が冷え切っている。今は夏なのに。なぜ冷えているのか、首に触れると酷く濡れていた。寝汗なのか冷や汗なのか、三井には分からない。動悸が激しく、呼吸が荒いのが分かる。ゆっくりやり直そうにも出来ず、ただ心臓を押さえて辺りを見渡した。誰も居なくてたった一人で、段々と目が慣れて来る。この部屋で自分が寝ているのはベッドで、その横には勉強机がある。クローゼットに積まれた雑誌、変わらない自分の部屋だった。誰も居ない、一人だった。未だに治らない動悸に苛まれ、三井は一人、そのまま布団の上に項垂れた。
あれは人殺しだ。人殺しなんだ。三井は掌を動かし、何かを探した。見当たらなかったから仕方なく、布団を掴んで握り閉めた。ぐっと力を込め、その冷たさを知った。人殺しだ、それは分かっていた。あの光景を思い出す度にあれは夢だったのだと言い聞かせ、自分を納得させた。そのくせ嗚咽を漏らして口から胃液を流しては咽び泣いた。苦味が口の中に充満する度、恐怖に襲われる。それなのに何で。何で何で何で!何で!握り締めたそれは欲しい体温じゃなくて冷たい布切れなんだろう。何故自分を守る為に傷付いた背中を思い出すのか。人殺しの背中を思い出して、あれの手を取りたくなる。水戸に手を繋いで欲しい。怖いから。今怖いから。怖くて堪らなくて一人で居るのが辛くて苦しくて体がばらばらになりそうだった。今ここに居てよ手を繋いでよ。三井は耐え難い恐怖を与えた張本人の手を欲していた。どうしようもなく求めた。もしも会えばきっと、足が竦んでしまうだろうにどうしても。今ここで名前を呼んで欲しかった。寿くん、と呼ぶ声が欲しかった。だから小さくその名を呼んだ。一度ならず二度も三度も呼んだ。何度も繰り返した。当然返答はなかった。布団に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。握り締めているのは未だに布切れだ。もう冷たくはなかった。三井の体温が移っている。何度呼んでも返答は無い。今どこに居るのか何をしているのか、あの少年の行方を、三井は知らない。
それから何日か経った。三井はまた、自室に居た。ベッドに座り、窓から空を眺めていた。エアコンの風が程良く当たり、外が暑いかどうかも分からない。ただ、今日も入道雲がそこにあった。締め切った窓からは蝉の鳴き声も聞こえなくて、窓硝子に規則的に頭を当てる。とん、とん、と当てていると、視界が動いた。見える掛け時計の秒針も規則正しく動いていて、ああ時間は今日も過ぎる、と流れるように思う。今は何時か、午前十一時を過ぎた所だった。どうでもいいと思った。今が何時で何日で何曜日かも、三井には特に意味を持たなかった。過ぎ去るだけだった。今日もまだ、顎にはガーゼを貼っているし、二口だけアイスクリームを食べただけだった。腹も減らない何もやる気がしない、思い浮かぶのは少年の背中しかない。あの傷を彼は、どうしたのだろう。
こつん、と音がした。窓に何かが当たる音だった。また同じ音がした。こつん、と。うるさいなあ、と感じるだけだった。だがその音は止まない。仕方なく目線を下げると、酷く所在無さそうに立っている少年が居る。外から三井の部屋の窓に向かって小石を投げていたのか、小さく振りかぶろうとしていた所だった。三井は空気を吸い込んだ。エアコンで冷えた風だった。酸素の味を、久々に知った。
「水戸!」
三井は何も考えていなかった。この時だけは。ベッドを降り、階段を降り、着の身着のままで玄関を開け、外に出た。ちょうど育ての母は居なかった。
「水戸、お前何してたの?ずっとどこに居たの?なあ、元気だったの?メシちゃんと食った?」
矢継ぎ早に質問をした三井に向かって、水戸は変わらず笑った。子供のそれを彼は、三井にだけ見せることを、三井自身がよく知っていた。
「寿くんこそ元気だった?顔色悪い。ちょっと痩せたし」
ごめん、そう言って深々と頭を下げる水戸を見て、三井は酷い罪悪感に苛まれる。この少年を思い、人殺しだと心の中で何度も罵った。お前のせいで食欲も湧かない眠れない悪夢に見舞われる、と。何も言えず口を噤むしか出来ない三井は、足元を見た。履いてきたサンダルを砂でじゃりじゃりと擦らせる。足が竦むことは無く、自由に動いたことが不思議だった。
「寿くん、時間ある?」
「え?」
「おばさん、平気かな」
それだけで察した三井は、ちょっと待ってろ、と水戸に言った。一度家に入り、リビングへ向かった。置いてあった広告の裏に側にあったペンで文字を書いた。「出掛けて来ます。すぐに帰ります」その文字は乱雑だった。気が急いているのを三井は、自分で書いた文字から知った。そして気付いてしまったのだ。水戸が三井に何を与えても、それが膨大な拭い切れない恐怖だったとしても、それでも会いたくなるのだと。人殺しでも親殺しでも、万が一自分に刃を向けたとしても。手を取りたくなるのは水戸だった。




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