長編

□4
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その週の土曜日。湖に行く為に三井は準備をした。育ての親におにぎりを何個か作って貰い、それをリュックサックに入れる。遊びに行って来ます、と言うと、見付からないようにズボンのポケットには大目に小遣いを入れた。今日も暑いし、途中で自動販売機も寄るだろう。それにコロッケも買わなければいけない。水戸は怒るかもしれない。寿くんが全部買ったの?と。俺も買ったのに、と言って拗ねるかもしれない。想像するとどうしても、ふくふくとした笑みが溢れた。早く、早く行きたい水戸に会いたい、三井はスニーカーを履き、行って来ます、といつもより大きな声で報せるように言ってから、玄関を開けた。むわりとした生温い風と強い日差しが一気に降り掛かる。それでも三井は難なく歩いた。今日も勿論、蝉の喧しい鳴き声は大合唱だ。耳を塞ぐこともしなかった。素通りした。途中で三井は、商店街に寄った。コロッケを買う為だった。昼時の肉屋のコロッケは、今日も揚げたてが並んでいる。香ばしい匂いが三井の鼻孔を擽った。かりかりの衣に中身はふわふわ、直接挽いた挽肉を使って作る、七十円なのに二人にとっては最高級の食べ物。唇に付く衣の粉、今日も付いたらどうしよう。三井の足元がまた、じわりと揺れる。軽くかぶりを振ってから、コロッケください、と店に立っているふくよかで中年の女性に言った。すると彼女は、ありがとう何個にする?と、にこにこと朗らかに笑う。二つじゃ足りない、今日は特別だと三井は思った。四つください、そう言った。彼女は同じように、ありがとう、と言って袋に入れてくれる。二百八十円支払うと、また来てね、と彼女は手を振った。ビニール袋を受け取ったと同時に、三井は会釈した。
待ち合わせ場所はいつもの公園だ。小走りで三井は、その場所に向かった。公園に着いても、水戸はまだ居なかった。早過ぎたかな、と公園内のベンチに座った。そこから見えるバスケットゴールを眺め、三井はまた蝉の声を聞いた。手元が退屈で、指先を遊ばせた。今日はバスケットボールは持っていなかった。突くものもない。水戸はまだか、と公園の外を見るも、彼の姿は未だにない。三井が公園に来てから、まだ数分も経っていなかった。それでも、居ても立っても居られなくなり、三井は座っていたベンチから立ち上がった。どうしても待てなかった。もしかしたら来る途中かもしれないし、と何気無く考え、三井はまた小走りした。揚げたてのコロッケの匂いが、鼻先を横切った。
水戸からはいつも、アパートには来るな、と言われていた。俺が行くから、と。でも今日はいいじゃん早く行きたいから、頭の中で言い訳を並べ、水戸が住む公園近くの町営住宅に向かった。途中で会うこともなかったので、三井は仕方なく水戸が住んでいる部屋へ向かう。三棟並ぶ住宅は全て古びていた。随分昔に作られたのか、外壁が薄汚れていて、所々ヒビが入っている。周囲に人は居らず、酷く閑散としていた。蝉の声が近くなる。どこか側に居るのかと勘違いするほどに。外側を見ることはあれど、中に入ることはなかったからか余計に、その静けさから多少足が竦んだ。真ん中の棟に住んでいると聞いたことがあり、三井はそこに向かった。階段の周りのコンクリートには、蜘蛛の巣が張っている。
ゆっくりと階段を上がる時に一層際立って感じたのは、真昼間なのにもかかわらず妙に薄暗いことだった。今は夕刻なのかと勘違いするほどに。三井は一度、ごくりと唾を飲み込んだ。コンクリートに阻まれてもじわりと聞こえる蝉の声だけが、今の三井には有り難かった。あんなにも喧しく感じていたのに。確か二階だと、水戸から聞いたことがあった。二階まで上がるとようやく、光が見える。今日もまた、掴めそうで掴めない入道雲が並んでいる。三井はコロッケの入ったビニール袋を、一度持ち直した。左から三番目の203と書いてある部屋だそうだ。たった一度だけ水戸から聞いた話を、三井は覚えていた。あった、三井は雑多に書かれた「水戸」という漢字を見て、確認する。茶黒に汚れたインターホンを鳴らすべきか鳴らさざるべきか。悩んだ末に三井は、それを押そうと決めた。その時だった。
怒鳴り声と何かが強く、何かにぶつかったような大きな音がした。怒鳴り声は何を言っているかはよく分からない。てめえ!だったかもしれない。その目が気に入らねえんだよ!かもしれない。とにかく大きな雑音のように喚き散らした男性の声が外にまで響いた。三井は反射的に体を震わせ、後退った。鬱血した痣の理由、瘡蓋がずっとあるのは、傷が治っても新しく他に出来るからだ。どこに擦れて付いたのか、聞いたこともない。秘密ね、とどこか物憂げに笑った訳がこの部屋の中にある。足が竦んで動かない。今も尚、怒鳴り声と大きな音が三井の耳を突く。このまま引き返してしまおうか、そうすればいつか水戸は来る。何も知らなかった振りをして、おせーよ、と言えばいい。そうして二人でコロッケを食べれば。食べれば?食べられなかったら?寿くん、と呼ぶ水戸が居なくなってしまったら?この雑音の中に紛れ込んで。腕が揺れたのか、ビニールが乾いた音を立てた。まだ揚げたてのそれは、軽く持ち上げただけで匂いがする。寿くん付いてる、そうして唇に触れた指先を、三井は思い出した。
「水戸!」
三井は自分自身に言い聞かせるように、玄関のドアノブに手を掛けた。捻れば鍵は掛かっていない。竦んでしまった足を動かす為にも、掴んだドアノブを思い切り引っ張った。開けるとそこには、凄惨な光景が広がっている。ゴミが散らばった狭い台所、転がる酒瓶、見える続きの部屋は布団が引きっぱなしで衣類も転がるように点々としていた。そこに水戸は居る。玄関を上がったすぐ側の台所に、父親と思しき男に胸倉を掴まれ、唇の端から血を流し、頬を腫らして三井を見ていた。ドアが開いたのを感じ、反射的に見たのかもしれない。
「何でここに来た!来るなっつったろ!」
「だ、だって……」
「逃げろ早く!」
水戸は胸倉を掴んでいた男の顔に唾を吐いた。怯んだ隙にその手を外そうとする。が、焦りからか上手く外れず、男はまた、水戸の頬を殴った。飛ばされた拍子に、壁にぶち当たる。三井は靴を脱ぐこともせず、そのまま水戸に走り寄った。
「水戸!水戸!」
「寿くん、逃げて頼むから」
「嫌だ、早く一緒に」
座り込む二人に、男は笑った。何だお前ダチが居たのか良かったじゃねえかお前みたいな父親が誰かも分からねえクソで要らねえガキにダチが居て。大きな声で唾を飛ばしながら笑う汚らしい様とその言葉に、三井の体は足元から順に血の気が引く。それが頭まで行き渡った時、すうっと冷めたものを息と同時に吐き出した。三井が水戸に駆け寄ってから今こうして立ち上がるまでほんの数十秒しか経っていない。その筈なのに、このたった一瞬が酷く長く感じた。変わる、ただそう思った。三井は、自分より大きな男に向かって、声にならない声を上げた。叫んだ。直後、男の体を思い切り突き飛ばす。シンクの収納部分に体をぶつけた男は、小さな声を上げた。
「お前の!お前のせいだ!ぶっ殺してやる!」
「寿くん止めろ!」
突き飛ばされた男は、笑うのを止めた。あ?と静かに言うと立ち上がり、シンクに置いてある包丁を手に取る。それを見た三井は、唾を飲んだ。蝋で固まったように動かない足は、小刻みに震えた。汗がこめかみを伝わるのが分かる。ぽたりと何かが、弾く音がする。シンクのステンレスに、蛇口から水が垂れた音だった。五感が酷く敏感になっていて、耳鳴りも同時にあった。蝉の鳴き声もぼやけて聞こえていて、どこかから響いて聞こえるのは果たして幻聴か否か。ぽたり、ぽたり、ゆっくりと水が、ステンレスに弾く。
早く逃げればいい、逃げろ、水戸を連れて。包丁を手に取った男が近付くまで凡そ数秒だった。その筈なのに、倍以上の長さで時計の針が進んでいるようだった。逃げられるのに、こんなにもゆっくりなら逃げられる。直後、男が包丁を振りかぶった。振り下ろしたのが見え、三井は反射的に両目を閉じ、両腕を交差して顔を覆う。びりっとした痺れを伴う痛みを左顎の下に感じた瞬間、体が押されたような感覚があった。反射的に目を開けると、水戸が三井の体に覆い被さっているのが見えた。
「ごめん、ごめん、寿くんごめん!」
水戸は目に涙を浮かべ、三井の左顎を優しく撫でるように触れる。まだ何が起きているのか理解が出来ず、三井は瞬きを何度もした。水戸の指先に赤色が見える。それは明らかに血だった。オレの?
その瞬間、水戸の目が変わった。瘡蓋を掻いていて指先に付いた血を見ていた、あの目と同じだった。子供のオレはこの水戸をどうやって表現したらいいのか分からない、公園で感じたあの時と同じだ。
「殺すか」
水戸が走り出した時、背中から血が見えた。Tシャツが破れていて、そこは赤く滲んでいる。オレを庇ったから背中が?
走った水戸は男の急所を蹴った。唸ることも出来ないほど強い力だったのか、男はその場にしゃがみ込む。水戸はすかさず、台所に置いてあった瓶で男の頭を殴った。また叫び声がする。痛みと恐怖が混在した声で、耳を塞ぎたくなった。けれども出来なかった。怖いと思った。今この場に居るのが怖かった。目を閉じてしまえばいい。それなのに三井は、瞬きも出来ないほどずっと、目を見開いたままだった。男が手を離した包丁が床に転がった。それを水戸が手にした直後、三井は直感的に気付いた。水戸が言った「殺すか」の意味を。
振り下ろされたそれは、男の背中に突き刺さった。一度抜かれた刃は、また振り下ろされた。それを何度も繰り返した。男の声はもう聞こえない。刃が肌を通して体を突き刺す音も、酷く静かだった。無音に近い中でまた、ぽたり、ぽたり、と水が弾かれる音がする。止んでいた筈の蝉の鳴き声がまた、緩く曖昧に再開し始めた。水音と何かに遮られたような緩慢な鳴き声が、別々で同時に三井の耳の奥を過ぎる。
水戸が包丁を手から離した。するりと抜けたそれが床とぶつかった音が一番大きく聞こえる。水戸の手は、褐色に塗れていた。一瞬見えた横顔も身体中に返り血を浴び、ずぶ濡れだった。行く筈だった湖。静かで音のない、二人だけの世界。誰にも邪魔されない場所。爪先に何かが触れる。生温いそれは赤く、決して湖ではなかった。
その時、玄関が開く音がする。三井が目だけを動かすと、女性が一人入って来る。
「母さん」
水戸の言葉に、三井は息を飲んだ。彼女は何も言わなかった。この惨状を見て、ただ沈黙を続けた。買い物をした後だったのか、ビニール袋を手に持っていた。それを構わず落とした。ゆっくりと静かに落とされたそれは、三井が買ってきたコロッケの側にある。彼女は靴も脱がず、ゆっくりと玄関を上がった。台所の脇に置いてある固定電話の受話器を持ち上げる。じー、じー、じー、回される黒電話と水戸の母親を、三井はただ眺めていた。水戸も同様に、じっと目を逸らさずに彼女を見ている。
「私、人を殺しました。主人です。主人を、殺しました」
今何故か、蝉の一生を話した水戸を思い出した。寿命が来たり、他の虫に食われたりすることもある。寿命じゃない、他の虫に食われたのだ。いや、ただ払っただけなのか。





5へ続く


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