長編

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蝉の声が酷くうるさい夏だった。そこかしこで鳴き声が大合唱していて、十二歳の三井はバスケットボールを突き、その音を耳から掻き消した。この町は田舎で、周りは緑と山だらけだ。その中にある自宅近くの公園で、三井は小学校から帰宅すると育ての母に一言言ってから家を出た。公園行って来る、と言うと、育ての母は必ず言う。気を付けるのよ?と。三井は微笑み、はい、と返す。これがほぼだった。使い古したバスケットボールを持ち、公園まで早足で歩いた。その頃既に蝉の声は喧しく、酷く耳障りだった。高くて明るい空に入道雲、そこに三井は手を伸ばした。年齢の割には身長も高い方で、手の長さも足の長さもある。すっと伸びた体躯は目立っていた。それを持ってしても、入道雲は掴めない。美味そうなのに、伸ばした腕と掌で太陽光を隠して、ぐっと握り締めた。小さくなった面積から覗く細かい光が眩しくて、三井は目を細めた。
公園にあるバスケットゴールは古びている。錆も出ていて、所々金属が剥がれていた。ネットの紐も薄汚れていて茶色い。それでも三井は、このバスケットゴールに向かって何度もシュートを打った。膝を曲げて伸ばすと同時に跳んで、長い腕を伸ばした。クラブ活動には属していなくて、三井はそれを、ビデオや雑誌で学んだ。この町でこの公園で、バスケットゴールに日々向かい合っているのは、三井だけだった。あまりひと気が無いから、ひぐらしが鳴く前に帰りなさい、と少しだけ老いた育ての母から言われたものだった。学校が終わってひぐらしが鳴くまでなど極僅かな時間しかない。バスケも出来ないしあいつとも遊べない、三井は口を尖らせながら、またボールも突いた。「あいつ」が来るのは早い時もあるし遅い時もある。家庭の事情があるらしい。寿くんごめんね、遅くなると「あいつ」は必ずそれを言う。その言葉を、三井はあまり聞きたくなかった。ごめんね、と言う時の「あいつ」は、酷く憂いているように子供ながら三井は感じるからだった。そして時々、腕を掻く。瘡蓋が痒いのかもしれない。三井はその瘡蓋が付いた理由を、よく知っていた。
三井はまた、ボールを突いてそれから跳んだ。革紐にボールが通る瞬間、三井の周りから音が消える。蝉が大合唱している声も。土にボールが、とんとんとリズム良く落ちる音が聞こえてからようやく、蝉の声が踊り出す。こんなに大きな音を出す集団は、どこに居てどこへ消えていくのだろう。「あいつ」が来たら聞いてみよう。その時、土が擦れる音がした。自分以外の足音と、それが「あいつ」だと分かったのは同時だった。
「おっせーよ!」
「ごめんね」
またごめんって言った。三井が言うと、少年は柔く笑い、瘡蓋を掻いた。その少年は、水戸洋平という。三井の二学年下の四年生だ。水戸は町営住宅に住んでいて、登下校が一緒になることが多かった。互いに別の班での集団登校ではあるのだが、水戸の居る班と三井の班は、時間が大概重なることが多い。その中で三井は、水戸と話す時間が増えた。水戸の口調は、酷く穏やかだ。ごめんね、という言葉が、十も二十も年齢が上の口調に感じる。その癖、見下げるほど身長は低かった。その差異に、三井は首を傾げたものだった。顔と体が違う。そのように思った。
「寿くん、見て」
「ん?何?」
水戸は三井を、寿くん、と呼ぶ。まだ声変わりのない声で、ごめんね、とは違う口調で呼ぶ彼の「寿くん」を、三井は好きだった。背の低い水戸を三井は覗き込んだ。見て、と言われた掌を見ると、そこにあるのは缶バッチだ。それも、三井が好きなNBAで有名なバスケット選手が着ているユニフォームが描かれている小さな缶バッジ。三井は小さく、あ、と言った。
「すげえ!お前何回やったの?」
「一回だよ」
「まじで?!すっげえ!」
というのも、商店街の中にある玩具屋に、NBAの選手のユニフォームが描かれている缶バッチのカプセルトイが並んでいるのだ。それを何度チャレンジしても、三井はこの選手の缶バッジには当たらなかった。それを水戸は、たった一度で引き当てたらしい。
「お前凄えじゃん!ツイてんな!」
「え、あ、そうかな」
「そうだよ、すっげえ。大事にしろよ?」
三井が得意気に言うと、水戸は目を伏せて笑った。そして缶バッジを握り締め、彼はズボンのポケットに突っ込んだ。そしてまた、水戸は瘡蓋を掻いた。半袖から伸びた細い腕に、鬱血した痕が見える。三井はそれを見て、眉を顰めた。Tシャツからギリギリ覗く辺りにある。こうした部分を見ると、三井はただ、遠くに行きたくなる。二人だけで、誰も知らない場所に。何故それほどまで、彼のことを思うのか分からなかった。ただ登下校の時に会話を交わし、何気無く他愛ない話が、三井の心を酷く安堵させた。下校中は特に、二人で寄り道をしながら色々な話をした。学校の話、バスケットの話、互いの家族の話。
三井の両親は、三井が三歳の頃交通事故で亡くなっていた。奇跡的に三井だけが生き残った。その後は遠縁の、子供の居ない年老いた夫婦に引き取られた。彼らは三井を叱らなかった。何をしても怒ることはなく、酷く遠慮がちに扱った。養子縁組の話が出たものの、幼いながらも三井は、かぶりを振ったのだ。彼らの思慮深さが逆に窮屈に感じて、三井にはとてもこの二人とは家族にはなれないと思った。ただそれでも、まだ子供の三井が生きる術を持つことは出来ず、この現状のままでいる。それが生きる為の処世術だった。そんな話をしても水戸は、そうだね、としか言わなかった。同情も無ければ辛辣さもなかった。流れるように、そうだね、という言葉を聞いた時に三井は、この田舎町にある大きくて静かな湖を思い出したことを覚えている。
「今日遅かったじゃん。どうしたの?」
「あー、うん。ちょっとやり合っちゃって」
「また?」
水戸が彼の父親から暴力を振るわれているのを三井が知ったのは、彼と話をするようになってからすぐのことだった。大きな瘡蓋の上に、必ず痣が残っていたからだ。痣は何箇所もあった。洋服に隠れて見えないように。たまたまTシャツが捲れて腹部が見えた時、あ、と三井は言った。彼をじっと見据えると、水戸は隠すことすらせず、そうだよ、と言った。でも、秘密ね、と付け加えたのだった。
「早く外行けって言われたんだけど、缶バッジが見付かんなくてさ」
「え?」
「探してたらあいつが変なとこやってて」
遅くなった。付け加えた水戸は、どこを見るでもなく、冷えた目をしていた。たかが缶バッジの為に。彼が暴力を受けた責任が自分にあるような錯覚をして、三井はばつが悪くなる。
「あー違う違う。あんたのせいじゃない」
「でも」
「早く母親とやりたかったんでしょ」
「え、何を?」
「セックス」
ただの単語のように言ってのける水戸に、三井はぎょっとする。
「お、お前何、何言ってんの?!」
「あれ、言葉違ったっけ?」
「いや、合ってると思う」
「ああ、だよね」
そう言った水戸を見た三井は、やはりただそこにある言葉を言っているだけに感じた。まるで何でもない行為のように。水戸はまだ瘡蓋が気になるのか、その部分を掻いている。強く掻いたのか、多少剥がれてしまった。水戸の爪先の部分に、褐色の固まった血が付いている。水戸はそれを、またぼんやりと見詰めていた。まるで感情が読み取れないのは、三井が子供だからだろうか。蝉の鳴き声が酷く大きく聞こえた。耳の側で、鼓膜の奥まで響いて反響している。
「今日も、殴られたの?」
「うん」
「痛くねえの?」
「まあ、それなりに。でも俺、結構やり返してるから」
寿くんが心配することじゃないよ、水戸は三井を見て、緩慢に笑った。水戸はよく、三井にこの顔を見せる。寿くんごめんね、寿くんは心配しないで、寿くんが痛いみたいな顔する。自分も子供だということは承知していながらも水戸は更に二つも歳下の少年だ。それなのに水戸は、静かで波のない湖のような表情を見せる。緩やかで音が無い、臨んでみた所で遠い、そんな存在だった。
ずっと立ちっ放しで強い日差しを受けたからか、互いに汗を掻いていた。あつ、と三井が言うと、水戸は三井を呼んだ。こっち、と言われて付いて行くと、そこは公園内にある大きな木の下だった。そこに二人で座った。木陰で、幾分か気温が低い気がする。時折、多少だが冷たい風が抜けた。ただ、蝉の声は大きくなる。耳を塞いでしまいたいほどの喧しさで、三井は水戸の、寿くん、が聞けなくなるのではないかと危惧した。柔く呼ぶ声が、三井はとても好きだった。そこで気付いた。
「なあ。蝉ってどこから来てどこに行くの?急に鳴き止むし居なくなんじゃん」
聞くと水戸は、きょとんとして三井を見た。三井はよく、水戸に質問をする。この草の名前は?この花っていつまで咲くの?何でオレと居るの?水戸はその質問にきちんと答えた。カヤツリグサって名前。アヤメは七月くらいまで咲く。寿くんが大切だから。最後突拍子も無いことを言えど、三井は驚くことをしなかった。その断言的な口調が好きだった。水戸は博識なのか、様々なことを知っていて一つ一つ、丁寧に答えた。それが聞きたくて、三井はよく、水戸にクイズを出すように問うた。
「変なこと聞くね」
「気になるじゃん。こんなにうるせえから」
「そうだな、三年から十七年土の中に居る。アブラゼミは六年だって。そっから外に出て羽化して、野外だったら一ヶ月くらい鳴き続ける。でも寿命が来たり、他の虫に食われたりすることもある。一生のうちに一回だけ交尾して卵産むんだ。すげえよな、生きてることの証明みたい」
「へえ」
単純に、三井は感嘆の声を上げた。お前すげえなあ、と言うと水戸はかぶりを振った。
「凄いのはこいつらだよ。一度の交尾に賭けるんだもん。あの母親と父親、あいつら一日何回セックスしてんだろ、大人になったらそんなもんなのかな」
「オ、オレが知るわけねえじゃん!」
「だよね」
はは、と笑う水戸は、十歳の少年に見える。ひぐらしが鳴く前に、こいつをどこかに連れて行けたらいいのに。三井は彼の、こうした少年のままの表情を見ても、どこかへ行きたい、と思った。何も知らない、誰も知らない、二人しか居ない場所。静かで緩やかな、蝉の喧しい声さえ聞こえないどこか。
「あ」
「何?」
「今度湖行かねえ?ちょっと遠いから土曜日とか。学校半ドンだし。あのさ、肉屋のコロッケあるじゃん。それ買って食いながら。おばさんにオレ、おにぎり作ってもらう。それ持って行こうぜ、なあ?」
肉屋のコロッケは、二人が小遣いの余りを貯め時々買うものだった。一つ七十円のそれは、値段の割にはボリュームのある、肉屋の主人が挽いた挽肉を使って作られているコロッケだ。揚げたてで衣はかりかりしていて中身はふわふわしたそれを二人で初めて食べた時、美味い!と笑った。それからというもの、時々食べた。三井の方が小遣いは多かった。言えば育ての親に貰えたからだ。七十円でも百円でも千円でも、コロッケが食べたいです、と言えば買えた。だが三井はそれをしなかった。水戸はどうしているかは知らない。聞いたことはない。ただ三井は、小遣いを使った時に出た釣銭を貯め、七十円のコロッケを水戸以外誰にも内緒で買っていた。
そのコロッケに齧り付くと、衣のかすが口の横に付く。普段落ち着いた口調で話す水戸の唇に、そんなものが付くのが可笑しかった。思わず笑って、水戸お前口に付いてる、と言った。すると彼は、寿くんも付いてる、そう言って手を伸ばした。水戸の細い指先が三井の唇に触れた時、あの瘡蓋を掻く指先が触れたと感じた。表現し難い何かが、三井の足元から這い上がった。それからというもの、三井は彼が瘡蓋を掻く度、コロッケの味を思い出した。まるで違う話なのに、不意にあの、油で揚げたての匂いが過ぎる。
木陰で座っていると、汗が引いてくるのが分かった。横目で水戸を見ると、彼はいつも三井を見ていた。三井が話し掛けると、水戸は必ず、すっきりした目元でじっと三井を見る。その視線が強過ぎると感じると、三井は分からないように瞬きをしながら少しだけ目線を下げた。三井が水戸の指を見てしまうのはそのせいだ。
「湖?バスで行く?」
「どうすっかなあ。歩けるかな」
「難しいよ。帰れなくなったら困るだろ」
いいのに、と言いかけた三井は口を噤んだ。だってオレは二人で静かな場所に行きたかったから。誰にも見付からないようにって。それを言い掛けて噤む。内緒にしておこうと、三井は含み笑いする。
「じゃあー、当日決めねえ?バスも本数ねえし」
「うん、いいよ」
にこりと笑う水戸の顔は可愛い。子供のように笑う。もっとも、今も勿論子供なのだがそれとは違う。真に三井に寄り添うその純粋な笑みが、小さな小さな子供のようだった。暴力も受けていない、両親の身勝手な性行為に付き合うでもない、ただ三井だけを信頼仕切っている純粋な子供。三井はもっと、それが見たかった。

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