長編

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レンタカーを借り、北村は東京からK県のO市にある児童養護施設、ひかりの園に向かった。今日の夜には東京に戻りたいと考えていて、電車ではなく融通の利く車を使っている。ひかりの園には昨日のうちに連絡を入れておいた。取材拒否されるかと考えてもいたのだが、すんなりと許可を得た。もしも難しい様子なら直接施設を訪れ直談判しようと思ってもいたのだが、それはしなくても済んだ。刑事時代とは違い、今は職権は使えないのだ。断られることも少なくない。ただこの施設の職員は、酷く対応の良い印象を受けた。
児童養護施設ひかりの園は、門構えからして学校のような雰囲気を持っていた。外壁に門があり、施設は白く清潔な印象だった。開いていた門を車で潜り、北村は来客用の駐車場に車を停める。午前十一時辺りの施設内は、まだ小さな小学生にも満たない子供達十人程度が、駐車場から見える園庭で遊んでいる。これだけを遠目から見れば、とても家庭に問題を抱えてここで二十四時間過ごしているようには感じなかった。ただ普通に幼稚園や保育園で遊ぶ幼くて純粋な子供、それに見えた。無性に居た堪れなくなり、北村は頭を掻いた。
駐車場から施設の入り口を探した。すぐに見付かる場所にあり、そこに足を向けた。昨日施設に電話を掛けた時、捻りも何も無く自分はジャーナリストであることと、伺って話を聞きたいと言った。電話口に出たのはちょうど施設長の女性で、彼女は「ひかりの園の施設長を勤めております麻生と申します」と、柔く穏やかな口調で答えた。そして、要件も聞かれた。どういったことを聞きたいのか、取材したいのかと。そこにもストレートに北村は、水戸洋平と拘置所で何度か話したこと。そこから彼の真実や抱えるものがあるのなら知りたいと、自分の考えを伝えると、彼女は「お待ちしております。道中お気を付けくださいね」と、また穏やかな声で言ったのだった。北村は拍子抜けした。酷く容易く感じたのだ。もっと難航すると思っていた。連続殺人犯が水戸洋平だと報道された際、ここを嗅ぎ付けたマスコミが取材に来ることも少なくはなかっただろうし、それ以前にも彼の母親である水戸涼子が犯した殺人事件の件でも、ひかりの園には取材陣が殺到した筈だ。格好のネタだろう。北村は小さくかぶりを振った。感情移入はするべきではなかった。出来るだけニュートラルな状態と意識で話は聞くべきだ。何にせよ、話を聞かせてもらえるだけで有り難いことだった。
施設内の見た目は学校の職員用玄関のようだ。来客用のスリッパもある。靴を脱ぐ前に、北村は辺りを見渡した。校舎のような造りではあるが、それ特有の硬質感はなく、緩慢な穏やかさを感じた。空気が柔らかい。纏う気温さえ温かい気がする。ごめんください、少し大きめの声で言うと、ぱたぱたとスリッパの音がした。続いて、はいはい、と緩やかな声が聞こえる。北村の前に、にこりと微笑んで現れたのは、少しだけ年老いていて笑い皺の綺麗な女性だった。多少の老いを感じても、その女性の朗らかさは顕著に感じる。
「初めまして。ジャーナリストの北村一之と言います。本日は急な取材を受けていただき、本当にありがとうございます」
北村が名刺を手渡してから頭を下げると、施設長である彼女はかぶりを振った。
「初めまして。施設長の麻生です。わざわざご足労いただいて。どうぞお上りください」
彼女は来客用のスリッパを北村の前に置いた。すみません、思わず口籠もりながら言ったそれに、彼女はまた緩やかに笑う。施されたまま靴を脱ぎ、失礼します、と言ってスリッパを履いた。案内されたのは施設長の個室で、来客用のソファに、どうぞ、と施される。北村は会釈してそこに座った。程よいスプリングは効いていたが、古いからか所々に補強や擦れもあった。それでも直しながら丁寧に使われていることは容易に想像出来た。麻生施設長が仕事で使っていると思しき両袖デスクも、随分と古びている。中古品をそのまま大切に使用しているのかもしれない。そこにはたくさんの本や書類等が全て整頓して並んでいて、几帳面さも伺える。
目の前の木造りで出来たテーブルも、古めかしい物に感じられた。そっと触れると、木の温もりも冷たさも、両方感じる。その時、湯気の立った日本茶が茶托と共に北村の前に置かれた。漂う香りに、どこか安堵する。すると前方から、よいしょ、と声がした。彼女もソファに座ったのだと、北村も顔を上げた。
「洋平くんのことでしたね」
「はい。急な申し出を受けていただき、感謝しています」
「いいんですよ」
「でも何故ですか?昔からここには、取材陣も多く来たでしょう。水戸涼子のこともありますし、今回のことも。ここに嗅ぎ付けて来たマスコミは多い筈です」
俺含め、自嘲気味に笑うと、麻生施設長も、ふふ、と柔く笑った。
「最初はね、お断りしようと思ったんです。興味本位で来られても今ここに居る子供達に余計なストレスを与えるだけだわ。でもあなたは違った。拘置所で洋平くんと話をして、その上できちんと真実が知りたいんだと、そう言ってくださったから。私もね、知りもしない誰かが洋平くんのことを好き勝手に書いたり、マスコミに報道されるのは嫌なの」
北村は頷き、彼女の話を聞いた。
「驚かれましたか?ニュースを見て」
「そうですね、驚いたかもしれないし、そうでなかったのかもしれない」
「というと?幼い頃から二面性があったということですか?私自身も取材をしながら、彼は穏やかに会話も出来るごく普通の青年に見えた」
あの時以外は。それは飲み込んだ。今でもあの、殺気を剥き出しにした目を思い出すと足の先が冷える。
「そもそも二面性なんてあるのかしら。裏も表も、元を辿れば一緒だわ。多角的に見えてもそれは、他者から円を削られただけですよ、きっとね」
なるほど、また頷きながら北村は相槌を打った。こうして断言的な言葉でも、口調は酷く穏やかだ。というよりも、どっしりと構えて動じないように見える。もっとも、そうでなければ児童養護施設の施設長など勤まらないのかもしれないが。
「ここにはね、色んな子供が居ます。育児放棄された子に虐待を受けた子、薬物依存の親から暴力を受けた子。様々です。洋平くんのように、母親が逮捕されてしまった子も。勿論一筋縄では行きません。どうにもならない時もあります。でもね、少なくとも洋平くんは、とても優しい子でしたよ」
「あの、彼が犯した罪の被害者の一人に、ひかりの園で一緒に過ごした子も居たと」
「工藤伸夫くんね?」
北村は返事をすることはせず、深く頷いた。そうね、と麻生施設長は目を伏せた。一度深く息を吐き、北村と目を合わせる。そして彼女は話し始めた。
水戸がこの、ひかりの園に初めて訪れたのは、母親の水戸涼子が逮捕されて幾日か経った後だったそうだ。当時十歳の水戸は、家庭相談員に連れられてやって来たのだという。今は施設長の麻生も、当時はまだ職員の一人だった。麻生から見た水戸は、酷く無口な少年だった。小柄で、顔と半ズボンから伸びた足に、残る傷や内出血の残る肌が痛々しかったそうだ。それでも水戸は、初めまして水戸洋平と言います今日からお世話になりますよろしくお願いします、とはっきりと口に出して頭を下げた。その頃水戸涼子が自分の夫を殺害したというニュースは全国的に広がっていて、その中でこの、水戸洋平の年齢不相応な聡明さは、麻生の目を引いた。彼のような家庭環境に育った子供は、総じて早熟な言葉遣いをすることが多い。全てを受け入れた上で閉じ込め、聞き分けを良くしなければ生き辛いからだ。彼等なりの処世術だった。が、水戸のそれは群を抜いていた。真っ直ぐ見て、大人である職員と子供である自分の境界線を、鋭利な刃物を使うようにすっぱりと引いていたのだ。悪く言えば、酷く子供らしくない子供であった。もっともそれは、水戸涼子の事件やそこに至るまでの経緯が彼をそうさせたのだろうけれど。
勿論取材陣も後を絶たなかった。当然門前払いをしていたのだが、その間水戸は、施設に迷惑を掛けると言って自室から出て来なかった。それもその内静かになり、水戸は転校した小学校にも通ったそうだ。小学校に通い、施設に帰ると遊ぶこともせず職員の仕事を出来る限り手伝った。ひかりの園は、自らの意思で職員を手伝うと少額ではあるが小遣いを貰うことが出来た。認められる喜びと自我の確立、労働とそれに対する対価の指導目的だったそうだ。麻生はそこで、極端とも言える水戸の働き振りに、聞いたのだった。どうしてそんなにお手伝いしてくれるの?もっと遊んでいいのよ、と。すると彼はこう言った。
「手紙を出したいんです。切手が欲しいから」
と。麻生はそこで、彼はまだ拘置所に居る母親に手紙を書きたいのだと思った。その時は。だが幾日か経って、たまたま郵便局に用のあった麻生が、水戸も郵便局に行って手紙を出したいと言うので預かったことがあった。不意に目に付いた宛名には、拘置所の名前も水戸涼子の名前もなかった。そこには以前彼がすんでいたK町の住所と、麻生の見知らぬ名前があった。まだ幼い字で書かれてあるそれに、麻生は彼の友人であるのだと感じた。だからそれにも聞いた。お友達?と。すると水戸は、初めて見せる笑顔で、いわけなく尚且つ少しだけ照れ臭そうに頷いた。
「大事な、友達」
そう言った。麻生は心底安堵した。彼には大切な自分の支えになる友人が居てくれるのだと。とても嬉しくなった。すると数日後、住所は施設宛で宛名は水戸の名前が書いてある手紙が届いた。送り主は彼が出した手紙の宛名書きに書いてあった見覚えのある名前で、麻生まで喜んだ。小学校から帰って来た水戸を呼び、洋平くんお手紙届いたよ、そう言うと彼は、眩しくなるほどきらきらとした子供が幼少期に見せる輝きがいっぱいの笑顔を初めて見せた。良かったね、と言った自分まで目に涙が溜まるほど、彼のその時の笑顔は忘れられない。
その後も文通は続き、頻繁に二人はやり取りをした。手紙が届く時だけ水戸は、子供に戻った。その時だけは酷く嬉しそうにシンプルな笑顔を見せた。その頃から水戸は施設内で、とある子供から虐めにあっていた。その首謀者が工藤伸夫だった。工藤は水戸とは同い年で、水戸よりも以前からひかりの園に入所していた。彼の母親は暴力と育児放棄をした挙句、相談所を通してこの施設に預けた。職員は順に、工藤に再三注意を施した。注意だけではなく叱った。だが工藤は、まるで堪えてはいないようだった。彼は水戸の、ある種飄々とした態度や大人びた落ち着いた口調、そして職員の手伝いを買って出る水戸が気に入らないようだった。怪我をすることも幾度となくあった。麻生や他の職員は水戸に言った。辛いなら辛いと言いなさい痛いなら痛い止めて欲しいなら言わないといけない伝わらないよ、と言ったのだと。けれども彼は、かぶりを振るだけだった。
「別に平気です。こんなの大したことない。やらせとけばいい」
彼のその言動に、麻生は息を飲んだ。まだ子供だ。十歳だ。何が彼に、そこまでの強さを持たせるのか。或いは他人という存在全てに絶望を抱かせたのか。きっとこれは例の事件のせいだと、身勝手でそれでも子供を守りたいという大人が作った狭い世界の被害者である彼の境遇を、麻生は悔いた。何も出来ない自分が歯痒かった。他の職員とも散々話し合ったのだが、結局ひかりの園以外どこにも行き場のない二人は、特に工藤の方を注意して見ておくことしか出来なかった。
それから数週間か一ヶ月か、しばらく経った頃だった。職員の一人が頂き物だと言って、三十センチ四方の缶に入った、クッキーを施設の子供達にと持って来ていた。とても高級感のある物で、子供達は喜んだ。普段食べる安価な菓子とは全く違ったからだった。とても嬉しそうだった。だが水戸は、手を付けなかった。要りません、と言った。けれども彼は、でも、と続けた。
「お願いします。その缶をください。お願いします」
彼から何か、職員に対して要望されたことは初めてだった。懇願のようにさえ感じ思わず、いいよ、と言ってしまった。後日事件が起こる。水戸の部屋にあったその缶を、工藤が園庭に持ち出した。缶を開け、その中身を取り出そうとした。騒ぎを聞き付けた麻生はすぐに園庭へと走った。止めなさい!麻生は声を荒げた。缶の中に入れてあったのは、水戸が唯一子供の部分を見せられる手紙だったのだ。故郷の大切な友人である男の子との宝物のようなやり取りだった。麻生はそれを知っていた。手紙の中身は勿論知らない。ただ分かるのだ。きらきらした眩しい笑顔、絶望を抱える彼が見せる一瞬の幸福。それを工藤は、持ち出して捨てようとしたのだった。止めなさい!麻生はもう一度、大声で叫んで近付いた。だがその横を、ふっと誰かが通り過ぎる。水戸だった。過ぎた瞬間、麻生は水戸の顔を見た。思わず、ひっ、と声を出した。それは吸い込んだ呼吸と共に一瞬で消え、空気に溶けた。ざわりとした悪寒が、足元から虫が這いずるように頭の天辺まで駆け抜ける。止めて、辛うじて出した声は掠れていた。それは果たして工藤に言ったのか寧ろ水戸に言った言葉だったのか、今でも分からない。水戸は工藤を捕まえ、胸倉を掴んだ。そして言った。
「それに触れてみろ、お前を殺す」
麻生はその時の水戸の目も声も、今でも忘れられなかった。低く凍えるような淡々とした口調、胸倉を掴んで力を込め、喉を詰まらせて唸りを上げた工藤を見る水戸の、冷ややかで激情を滲ませた瞳の色。この男は本気でやる、麻生はその時「子供」ではなく彼を「男」だと思った。怖いと、ただ思った。
それからというもの、工藤は水戸に対する虐めも、関わることすら止め、二人とも中学を卒業すると同時に、ひかりの園を出て行った。水戸は麻生が紹介した、F市の建設会社に就職した。会社が一棟購入しているアパートに、寮があった。そこに引っ越した。水戸が十五歳の頃だった。

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