長編

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面会室に入り、脇に置いてあるメモ用紙とペンを手に取った。手荷物全てをロッカーに預ける代わりに、それらは置いてあるのだ。北村はいつも、必要なことをそれに記入して持ち帰っている。面会室の古びた椅子に座り、一度座りなおすと軋んだ音がした。この音は、妙に緊張感を煽る。今からこの、アクリル板越しに初めて会うのが連続殺人犯の水戸洋平。北村はごくりと唾を飲み込み、アクリル板にゆっくりと触れた。その時だった。アクリル板の向こう側に見える扉が、ぎしりと音を立てて開いた。水戸洋平だった。その男は、上下グレーのスウェットを着ていて、裁判所で初めて見た時と同じように整った顔付きをしていた。別段変わった様子は見せない。北村の顔をじっと見詰め、軽く首を傾げた。少しだけ驚いているようにも見える。すっきりとした目元が、軽く開いた。男の後ろには、警官が立っている。彼は傍に置いてある椅子に腰掛け、水戸の様子を伺っていた。アクリル板を挟み、水戸も椅子に腰掛ける。北村が座った時と同じように、ぎしりと軋んだ音を立てた。
「初めまして。フリージャーナリストの北村一之と言います」
北村はそう言って、アクリル板越しに自分の名刺を見せた。
「どうも」
水戸は軽く会釈をする。北村は一瞬、言葉を飲み込んだ。この青年がどうして、単純な疑問だった。彼は特別、不揃いな感情を体の中に抱えているようには見えなかったのだ。良く言えば普通、悪く言えば酷く平坦としていた。目を覗き込んだとしても、拘置所に居ることの不平不満や潜んだ闇などはまるで見えて来ない。一層分からなくなる。と同時に、この男には探る価値があると直感的に感じた。
「急にすみません。あなたを取材したくて」
努めて冷静に、北村は微笑みを交えながら話し始めた。
「取材?」
「そう、あなたに興味があるんです」
水戸の表情は変わらない。口は閉じたままだった。
「取材と言ってもね、大したことじゃないんです。今の気分や気持ち、そういったことを会話しながら聞きたくて。どうですか?これがもし、例えば記事や書籍になる場合あなたの方は問題ないですか?」
「別に構いません。答えられることなら答えます」
「ありがとうございます」
北村は頭を下げ、じゃあ始めましょうか、と切り出した。何しろ時間は三十分程度しかない。早々に本題に入りたい所だが、焦りは禁物だった。なるべく彼の懐に潜り込むような会話が必要だ。ただ、相手の出方は分からない。北村はもう一度、唾を飲み込んだ。
「好きな食べ物ってありますか?」
「好きな食べ物?」
「そう、今まで食べて美味しかったもの。何かありますか?」
「そうだな、コロッケ」
「え?」
北村は思わず、目を開いた。
「時々買いに行ってたんです。肉屋が作ったコロッケ。それが好きでした」
「はは、美味しそうですね。今度行ってみたいな。どこですか?」
すると水戸は、目を伏せて口元を軽く緩める。
「忘れました」
「……そうですか」
触れられたくない箇所のようだ。そこはとりあえず置いておき、次の質問に移った。好きな色は?仕事は何をしていた?そのようなくだらない話を、北村はゆっくりと丁寧に聞いた。好きな色は特に無い、日雇いで土木作業員をしていた、何の変哲のない会話を繰り返し、面会時間はあと十分と迫って来る。北村は腕時計を確認し、ゆっくりと息を吐いて吸った。答えるのかどうか、この瞬間は必ず緊張感が走る。
「水戸さん」
「はい」
「どうして四人も殺したんですか?」
「どうして、と言うと?」
「あなたはずっと、黙秘を通した。動機ですよ。何か理由が無ければ殺さないでしょう?俺はそれが知りたい」
水戸は目線を軽くずらし、しばらく考えているようだった。彼の息遣いは酷く静かで、北村の問いに動揺すら見せない。こうして会話をしていると、彼はただの青年だった。好きな食べ物はコロッケ、特に気に入った色も無く、日雇いで肉体労働をする、目元が印象的な整った顔立ち。とても精神異常者には見えない、正常な会話が出来るただの男。極めて普通だった。厄介だと、北村は思った。この手の男は一番扱いが難しい。冷静で頭がいい、はぐらかすでもなく、顔色一つ変えず上手く流すように会話をする。一瞬でいい、表情を変えてみせろ。熱意を見せるように、北村はアクリル板越しに水戸を見詰める。
「北村さん」
「はい」
どう出るか。やはり黙秘か。時期尚早だったかと、北村は口内を軽く噛んだ。
「自分の周りに蠅が飛んでたらどうしますか?」
「え?あ、蠅?そりゃ払うでしょう。目障りじゃないですか」
「俺も同じです。目の前に蠅が飛んでたから払った」
そんなもんです。水戸は続けて、静かに言った。ぎょっとした。北村はようやく、彼が普通である意味が分かった。目の奥を探ろうと、闇が出て来る筈がなかったのだ。この男は、息をするように人を殺す。虫を殺す程度の意識で。だから正常に会話も出来るし、受け答えも卒なく出来る。自分の意思で、善悪の判断も付きながら殺人を犯した。彼はそう言った。矛盾も違和感もなかった。目の前に蠅が飛んでいたから。善悪などは皆無で、その程度。こんな男が目の前に、北村の背筋は自然と騒ついた。汗が流れる感覚があった。が、不思議と怒りは湧かなかった。それは何故か、ジャーナリストだからだ。自分はもう刑事ではない。ただ知りたい、それだけだった。
「そろそろいいですか?」
水戸が立ち上がる。北村は追うように立ち上がった。椅子が揺れる。床と金属の擦り合う音が、耳の奥を通り過ぎた。
「ちょっと待ってください!」
音が残り、大きな声を出してしまった北村に、水戸が振り返る。
「どうして俺に、教えてくれたんですか?黙秘を通してたでしょう」
「コロッケ」
「え?」
「好きな食べ物、コロッケの味を思い出させてくれたお礼です」
ほら普通の青年じゃないか。北村は口を噤んだ。何故だ、疑問符ばかりが浮かぶ。
「最後にもう一つ!」
引き留める為に言ったものの、質問は浮かばない。口籠る北村を見て、水戸は軽く首を傾げる。
「あの、あなたの友人」
「友人?」
「今度面会に来られたら謝っておいてください。俺が先に来てしまって、面会出来なくなったので」
「……そうですか」
その時北村は、あ、と思った。表情が変わった、と。彼は北村を見てはいなかった。面会室の壁の辺り、どこか向こう側を遠くの場所から眺めるように、水戸は声を出していた。この表情に北村は、どきりとした。酷く無防備に見えたのだ。もしも今なら、復讐者が彼を刺してもきっと、気付かずに逝けるような、そんな無垢な顔に見えたのだ。例えるなら子供が誰かを思うような。北村はその思考にぎょっとした。息を急に吸い込んでしまい、思わず噎せた。一つ咳払いをし、慌てるように声を出す。
「また話しに来てもいいですか?」
水戸は答えることなく頷き、面会室に居る警官に「終わりました」と声を掛ける。警官がドアを開け、彼はその場を去った。
北村はその後、ロッカーから手荷物を取り出し、受付にいる後輩の澤田に詰め寄った。おい、そう言うと彼は、酷く面倒そうに顔を顰めた。
「面会受付の記録あるだろ、見せろ」
「もう勘弁してくださいよ、無理ですって。個人情報!それくらい分かるでしょ」
「澤田てめえ、新人の時に散々面倒見てやっただろ」
「いつまでその手を使う気ですか?」
「うるせえ、じゃあ水戸洋平に会いに来てる人間の名前、それだけでいい。後はどうにかする」
澤田は訝しむように北村を見た。
「俺のすぐ後に水戸洋平に面会希望の受付に来てた奴が居たろ」
「はあ、居ましたね」
北村が睨むように澤田を見遣ると、彼は目を逸らした。
「俺の勘が正しければ、そいつはしょっちゅう来てるんじゃねえのか?そうだろ」
「……さすが元一課の鬼」
後輩の澤田は、深々と溜息を吐きつつ、横暴だ、と小さく言った。それでも彼は、ボールペンを手に取り手近にあるメモ用紙にさらさらと文字を書く。そして北村にそれを手渡した。
「今度奢ってくださいよ?綺麗なおねーちゃんが居るとこ。詳しいでしょ、そういうの」
北村はにやりと笑い、そのメモを受け取った。お疲れさん、と澤田に声を掛け、北村も拘置所を後にした。
メモ用紙には「三井寿」と書いてある。ミツイヒサシ?で合っているのか、北村は反芻するように文字を追った。拘置所の門を出た直後、前方に人影が見える。メモを見ていて俯いていた顔を上げると、ざわりと風が吹いた。春の生暖かい、妙に湿度のある風だった。反射的に口の中に入り込み、喉が詰まる。目の前には、例の三井寿が立っていた。彼は一度北村の顔を見ると、踵を返した。逃がすか、北村はすぐに追い掛け、彼の肩を掴んだ。振り向いた三井は、やはり酷く整った顔をしていた。そして、顎の傷が目に付く。不意に北村は、「そうですか」と言った水戸の無防備な表情を思い出した。無意識だっただろう。あの拘置所内で、他人に監視されながら生きて行く中で、更に死刑が待ち構えている中、あの無防備さを取り出すのは容易ではない。それを一瞬で、この目の前に居る男は引き出したのだ。こいつが何かを知っている、北村は確信していた。
「三井寿さんですね?」
「はい」
肩に置いていた手を外し、北村は名刺を取り出して三井に差し出す。彼は反射的に、それを受け取った。
「急にすみません。私フリージャーナリストの北村一之と言います。ちょっとお時間いただけませんか?」
「何ですか?」
「水戸洋平、ご存知ですね?」
北村が言うと、彼は一瞬だけ目を伏せ、すぐにじっと北村を見遣った。その時、妙な既視感を覚える。昔ではない、つい数分前に見た表情。それに酷似している。無防備な、壁の辺りを見詰める、どこか遠くの向こう側を仰ぐように、子供が誰かを思うような、あの表情。
「知ってますよ。連続殺人犯でしょ?知らない人間なんて居るんですか?」
口元を緩め、彼もまた無防備な表情を見せた。また北村の周囲を、湿度が高く生温い風が吹いた。その妙なぬめりは三井が放つ言い様のない空気と相俟って、一層じっとりと水気を感じる。面会室で感じた背筋の騒ついた感触が蘇った。
「それだけじゃない。あんたはあの男の面会にも、しょっちゅう行ってる筈だ」
「だから何ですか?同郷なんです」
「お話聞かせてください」
「フリージャーナリスト、北村一之さん」
高身長の彼は北村を見下ろし、手に持った名刺の名前をなぞるように言った。ふっと笑う仕草が不敵に見え、年若い彼に不快感を覚える。
「それを調べるのは、あんたの仕事でしょう?」
じゃあ、そう言うと彼は、今度こそ踵を返しその場を去った。追うことはせず、北村は小さく舌打ちをする。くそ、そう言って持っていた三井の名前が書いてあるメモを握り締め、息を吐いた。北村はまた、無防備だった二人の別々の表情を思い出す。
あれは、そこに居ない誰かを思う表情だ。どれだけ警戒心の強い人間でも、隙を見せる瞬間が必ずある。誰かに強く焦がれる瞬間、人は必ず隙を見せる。
北村は交互に二人を思い出し、頭を掻いた。




2へ続く


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