幸福の咎

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電車は未だに揺れている。その揺れが心地良くて、酷く怠惰な気分になった。このまま目を閉じて水戸の声が頭にぐるぐると回っていたら眠ってしまいそうだった。夢現、それが消えない。緩慢な暖かさにまで委ねているとどうにもならない気がして、左手首に触れた。目を開けるとそこには、何の変哲もない、いつもの腕時計だった。ああそうだ違う。後はもう努力します、探り探り言葉を選ぶ水戸をまた思い出して、気を緩めると破顔してしまいそうで落ち着かせる為に息を吐いた。早く帰りてえなあ、同じことをまた、何度も考えた。
帰宅したのは午後六時頃だった。玄関のドアを開けると、出汁の香りが漂っている。鍋だ、それはすぐに分かり、クリスマスの夜を思い出した。あの日オレは、呪いをかけた。水戸が必ずオレの所に帰って来るようにと。図らずもその呪いは、順調に上手くいっているように思われる。いや順調か?そうでもないか。思わず苦笑した。そもそも呪いで事が上手く運ぶなんて馬鹿馬鹿しい。どうするか決めるのは所詮意思だ。本人がどうするのか、それしかない。意思と、行動力。そこに恐怖が付き纏っていたとしても。シュークロークの上に置いてあるキーケースに目をやると、そこにひっそりと息を潜めている。静かに佇んでいるそれは、とても水戸に投げ付けた物とは思えなかった。これをオレは、投げた。目を逸らしたくなって、頭を掻いた。ごめん、オレは未だに謝っていない。
スニーカーを脱いで、大股で歩いた。足元は未だにふわふわとしていた。地に足が付いていない、おかしな感覚だった。靴揃えたっけ?まあいいやどうでも。あのドアの向こう側に水戸が居るから、もうどうでもいい。リビングに続くドアを開けると、ぱっと拓けたように明るかった。それが酷く安堵した。
「おかえり。お疲れさん」
「ただいま」
キッチンに居た水戸は、夕食の支度をし終えたのか、手を洗っていた。リビング中に広がる出汁の匂いを思い切り吸い込む。腹減った、ただそう思った。
「あんたは鼻が効くね」
「どういう意味?」
「メシが出来たと思ったら帰って来るって意味」
「すげえだろ」
「はは、特技だよな」
もう食うだろ?水戸はそう続けて、ダイニングテーブルに材料を運んだ。オレはキッチンで手を洗った後、椅子に座る。水戸はカセットコンロの上に土鍋を置き、火を点けた。元々キッチンで出汁を取っていたんだと思う。すぐに湯気が出て来る。煮えて来た出汁に、水戸は最初に豚バラ肉を入れた。オレは何もしない。見ているだけだ。というのも、昔好き勝手に入れたら注意されたからだ。肉が先だの、白菜は芯から入れろだの、これはもう任せた方がいいと手を出さなくなったのだ。もう覚えたからやればいいだけの話だけれど、まあいいやと手出しすることを止めた。
そこで、あ、と思った。だから嫌われんだよバーカ、菅田の小馬鹿にした口調を思い出した。オレって水戸にやらせすぎ?そこが問題なのか。
「手伝っ……た方がいい?」
「手伝うって感覚がおかしいだろ。自分のことだろ?ほんとは自分ですんの」
「あ、そーっすね」
「相変わらず生活能力ゼロだよな。大丈夫?どうすんの、一人で生活することになったら」
その言葉はアウトだろ、そう思って水戸を睨み付けると、水戸の手も止まっていて、オレを見ている。
「えーっと、ごめん」
「お前はデリカシーゼロだよな、相変わらず」
「ごめん。そういう意味じゃなくて」
また言葉を探る水戸が可笑しくて、思わず笑った。すると水戸も、表情を緩める。あれ?そう思った。何だろうこの顔、まじまじと水戸を覗くように見るけれど、何が違うのか分からない。あんまり見ているからか、水戸は怪訝そうに眉を顰める。何だよ、と言われたので、いや別に、と返した。よく掴めない。さっきの表情の理由が分からなかった。
その内鍋が煮えて来て、食べ始めた。いただきます、と手を合わせて鍋から箸で取り皿に入れた。食べながら今日のゲームの話をする。今日は負けた、そう言うと、次頑張んなよ、と水戸も少し残念そうだった。菅田さんはスタメン?と聞かれたので、そうだよ、と返した。元気?とも聞かれたので、無駄に元気、と苦笑した。痴話喧嘩云々の話はしなかった。ばつが悪くなるからだ。水戸は前髪が短くなっていた。髪切った?と聞くと、今日切って来た、と言う。言った後、鍋の具材を取ろうとしたのか椅子から立ち上がる。前髪が緩く動いた時、水戸のこめかみが目に入った。傷がある。まだ瘡蓋が残っている。思わず目を逸らした。ごめん、そう言いたいのに言葉が出ない。水戸はオレが居ない二日間、どうして過ごして来たんだろう。それはまだ聞いていなかった。
「なあ?」
「何?」
また瘡蓋が目に付いた。相当堪えた、水戸はそう言った。今、鍋の具材を放り込んでいる水戸とこうして、変わらず食事をしているのは、そしてこの先もそれを続けるのは、極めて稀有なことなんじゃないか。キーケースに呪いを掛けてそれを投げ付けて水戸を傷付けて、それでようやく気付いた。特別が欲しいなんて欲深く自分の欲望ばかり押し付けてようやく。でも所詮人間なんてそんなもんだろ?どうしても欲しい物があれば手に入れようと欲張るだろ?強欲なんだよオレは。何をしてでも欲しいの昔から。
「何、三井さん」
「お前、オレが居ない二日間どうしてた?」
「その話はしたくねえなあ」
「何でだよ」
「かっこ悪すぎて。職場でも八つ当たりしちまったし」
「え、まじで。誰に?」
「……経理のねーちゃん」
ははは、とオレから目を逸らして水戸は笑うと、椅子に座った。そのばつの悪そうな表情が何かを物語っているようで、沸々と湧き上がる小汚い感情が喉に詰まる。何か腹立つ。人間は欲深い。八つ当たりしたのが男じゃなくて女。腹立つ。やっぱり腹立つ。何しろオレは欲深いから、そういう感情でさえ誰にもやりたくない。
「おい」
「はい」
「あの女、やっぱりお前に気があるんじゃねえだろうな?」
「ねえよ」
「嘘吐け!」
「嘘じゃねえって。つーかあんた、最初っから嘘って決めてんだろ?」
「お前の態度が嘘を物語ってんだよ。吐いている。お前はもう吐いている!」
「ははっ!何なんだよもう」
「笑ってんじゃねーよ!」
水戸は一頻り笑うと、煮えた具材を取って口に放り込んだ。それからビールを飲み込むと、その喉仏とエラがくっきりする。綺麗な顔だと見惚れてしまって、終わった自分を実感する。水戸は呑気なもので、ビールねえや、と言うと立ち上がった。要る?と聞かれたので頷くと、水戸は冷蔵庫から二本缶ビールを持って来る。一本はオレの前に置いた。
「どっちにしろ、あのねーちゃん苦手なんだよな」
「何で?」
水戸はまた椅子に座り、鍋から具を取る。
「何でって言われてもなあ、苦手としか言いようがない」
「そこに理由はねーのか」
「理由、ねえ」
「あるだろ何か」
「さあ、何だろ」
水戸は首を傾げるだけで、後は何も言わなかった。本当に分からないのかそれとも誤魔化しているのか、その真意がオレには計りかねた。こういう所だ。水戸は単に、黙っているだけなのかもしれない。ただ、この男の目は酷く危うい。この調子でうっかり逃げてしまうかもしれないと、思わず勘ぐってしまう。狡いと思った。酷く狡いと、そう思った。捕まえさせた振りをして実は捕まえてなどいなくて、またするりと消えるんじゃないのか。あんな突き刺すような言葉だけを残して。
「ごめん、怒った?」
「え?」
黙って鍋をつついていたオレを、水戸はどこか伺うように見ていた。何これさっきと全く同じ表情だ。また掴めないそれだった。初めて見るその顔を、オレはどうにも理解出来なかった。だからしばらく黙って考えて、「ごめん」の意味を考えた。そして気付いた。今までこういう会話をして、謝られたことなど一切ない。それでようやく気付いた。こいつもしかして、オレのご機嫌伺ってんの?そう思った。今まで何かしらあるとすぐに「めんどくせえ」だの「うるせえな」だの煩わしそうにしていたこの男が。背筋が急に騒ついて、また喉元から何かが競り上がって来る。けれどもこれは嫉妬でも怒りでもない、歓喜だ。ああもうどうしようどうしてやろうか、答えが出ないから少しだけ、オレの遊びに付き合えと、意地悪く声を低くする。
「怒ってる」
「違うんだって」
「嘘吐け」
「ごめんって、なあ」
もう降参、水戸は最後そう言った。降参なのはオレだ。競り上がった何かは、目元まで上がって来るかと思った。それじゃあ格好悪過ぎるから、飲み込んで我慢した。ごめんって何それ、なあって何それ。そう言いたいのに言葉が出て来ない。オレってこんなに口下手だったっけ嘘だろ言葉で攻め立てる方だろ、自問自答しながら、水戸を見た。好きだと思った。全力で、全身全霊でこの男を好きだと思った。オレが何をしても何を言おうと変わらないと思っていたこの男が、今手に掴める場所に居ると知った。
「俺がまた傷付けるようなこと言ったら、ちゃんと言ってな。殴ってもいいから」
その言葉を聞いて、何て不自由なんだろう、と心底思う。不自由で、それでいてこの不自由さを、この上ない幸福だとも思う。
「あんたは分かりやすいけど、俺にとっちゃ難問だらけだからさ」
「はは、そっか?」
「そうだよ」
「じゃあ一生掛けて解いてみろ」
「そうします」
「なあ、水戸」
「何?」
「ごめん」
傷付けてごめん、俯いて言うと水戸は、何の話?と笑った。もう抱き締めてもいいのかな鍋を食べた後の方がいいのかな、こんな時までオレは煮えた鍋の心配をする。愛しい人を目の前に置きながら、自分が現実主義者だということを嫌というほど知った。そしてそれは、水戸も十分過ぎるほど分かっている。自分と違う人間を本気で愛することは、酷く不自由だと思う。それを分かっていながら、全てを投げ打ってでもその人を欲するのは傲慢でもあるし馬鹿げているし、非難されることさえ厭わない覚悟が必要だとも思う。そして普通の生活を捨ててでもこの男と生きたいと願うのは、それに最も近いことだと。でもそれでも、その咎を背負って生きることが出来るなら、それは幸福に最も近い。夢現な足元から、オレはようやく這い出した。






終わり


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