幸福の咎

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「いっそ、あなたが好きだと思う時計を選んでみてはいかがですか?相手の為じゃなく、あなたがその人に似合うと思える時計を」
一度だけ訪れたことがある横浜の時計店で睨むように幾つも腕時計を見ていると、以前会話をしたオーナーと思われる男性に声を掛けられた。何かお探しですか?と。お世話になりっぱなしの人に何か渡したくて、そう言うと彼は、そうですか、とゆったりとした口調で声を出した。難しいですね、そう言うと彼は俺に、自分が好きだと思える物を選べばいいと告げたのだった。なるほど、と、もう一度見渡すと、茶色の革バンドにブルーの文字盤の時計が目に付いた。あれがいいと直感で決め、購入した。彼は言った。その時計を梱包している最中に顔を上げ、スイス製で丈夫だし上手く使えば一生モノですよ、と。どこかで聞いたことのある言葉に驚いていると、にこりと微笑まれる。梱包された腕時計を、彼は紙袋に入れて渡してくれた。紙袋に描かれてあるロゴは、奇しくもあの人が使っている腕時計と同じ物だった。たくさんのメーカーの腕時計が並ぶ中で、俺が選んだ物は三井さんと同じメーカーの物だった。ありがとうございます、と受け取り、思わず苦笑した。
腕時計を選んだ理由は単純なものだった。いつも使われているあの時計がローテーブルから消えたのを見て、夏休みの長い長い怠惰な時間が終わってしまうと思ったからだった。終わらせたくない返したくない、それだけだった。躍起になっていた。あの人が執着や束縛が欲しいのなら、これがそれに当たればいいと、ただ思った。
三井さんはベッドに俯せになりながら、腕時計を触れたり見たりしている。外せば?と聞くのだけれど、嫌だね、と酷く得意気に笑った。まあ嬉しかったなら何よりだと、言うのをやめた。三井さんは酷く機嫌が良さそうだった。意外と元気そうで安心している。本当は一度だけ抱いて止めようと思った。どうでもいいとは思ったけれど、それでも明日のことを考えて制御した。けれども彼の方が、何度もせがんだ。最初珍しく見せていた羞恥な反応など何処へやら、そんなものはすぐに消えた。あんたほど性に貪欲な奴知らねえよ、そう言って動くと三井さんは、更に鳴いた。背中が騒ついて、結局歯止めが効かなかったのは俺も一緒だった。高校生かよ、思い出して苦笑すると、どうした?と聞かれる。何でも、とかぶりを振ってベッドから起き上がった。Tシャツにパーカーを羽織った所で、不意に思い出す。言うことが、まだあった。
「忘れてた。あのさあ、浮気がどーのこーのって話」
「何だっけ、それ」
「あんた言ってたろ?女と寝てもいいのかとかなんとか」
「ああー、あったね」
あったね、じゃねえよ自分で言ったんだろ、と突っ込みたかったけれど、話が進まないので止めておいた。
「俺はね、やっぱりどっか欠落してんだよね。気持ちのないセックスなんて自慰と一緒だと思ってるし」
「ひっでえ男だな」
「はは、行為自体に価値はないと思ってるのは本当。悪いけど。まあでも俺も男だし、やりてえなって時はあるけど問題はそこじゃないの。相手が重要ってこと」
三井さんは俯せにしていた体を軽く起こし、顔を上げる。形のいい少し厚めの唇が見えて、思わずキスをした。触れるだけのそれを何度かして、またやりてえな、と直感的に感じる俺も大概だと笑いたくなる。
「あんたじゃないと意味ないってこと。ちゃんと覚えといて」
三井さんの頭を撫で、煙草を口に咥えた。寝室からベランダに向かう後ろ側から、水戸、と呼ばれる。振り返ると彼は、何でもない、と言うだけだった。ベランダに行くことすら名残惜しい。こんな感情、あることすら知らなかった。一生なんて陳腐な言葉に一瞬だけでも縋りたくなる。夏休みが一生終わらなければいいと、あの腕時計に今度は俺が呪いを懸ける。





10へ続く


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