幸福の咎

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携帯を切ってから、嘘吐いちまった、と目を伏せた。本当はまだ作ってなんていない。そう言えば帰って来ると思ったからだ。あの人は俺の飯が無くて生活出来るはず無いんだって、そんな呪いにも似た一種の願掛けのようなことを考えながら電話を掛けた。あの人の職場からここまで一時間弱だから、夕食を作るには十分の時間がある。賭けだった。帰って来るならもう、それだけで良かった。深く息を吐いて、胸を撫で下ろした。
親子丼かオムライスかどっちにしようか、考えながら冷蔵庫を開けた。鶏肉が解凍されていたから親子丼にしようと決める。どっちでもいいや喜ぶなら、結局その結論に至った。キッチンで手を洗い、調理を始めた。出汁を取る所から始めて、作り終えるまで凡そ三十分程度だった。親子丼、味噌汁、サラダ、その三品。こんなもんだろ、作り終えた料理を一度見遣り、煙草を持ってベランダに向かった。一服しながら、彼が帰宅するのを待ち遠しく思う。こんな風に誰かを待つのは初めてだった。会いたくて堪らないと思った。覚悟を決めろ、随分前に自分が言った言葉がようやく染みる。初めてそれを理解した気がした。煙草を二本吸い終わり、リビングに入る。外と室内との差異に、妙に安堵する。暖かい部屋、明るい部屋、その本当の意味を俺はこの時初めて知ったのかもしれない。そろそろ電話から一時間近く経つことに気付いて、またキッチンに立った。その時、玄関の開く音がする。深く息を吐いた。帰って来た、そう思った。きっと今頃玄関で靴を脱いで、やっぱり揃えていなくて、それから廊下を歩く。短いそこを大股で歩くから、すぐにリビングに着く。すると、そろりとした音でドアが開いた。
「おかえり」
「……ただいま」
三井さんは、少しだけ目を伏せて、ばつの悪そうな顔を見せる。謝るのは俺だ、そう思っているのに口を開いて出て来るのはきっと、的外れな言葉に違いない。
「メシ出来てるよ」
ほらやっぱり。口から出て来るのは今に見合った言葉でも何でもなくて、日常会話のそれだった。彼は頷くと、一度寝室に戻った。遠征用の大きなキャリーケースを手に持っているからだと思った。あれを片付ける為だと。俺は親子丼を用意して、味噌汁を装った。ダイニングテーブルに順に並べていると、三井さんが寝室から戻って来る。それでもまだ、彼は少しだけ物憂げな表情をしていた。どう言えば、何を言えば、三井さんの表情がいつものように晴れた笑顔を見せるのか分からなくて、俺が笑ってみせた。すると彼は、一層顔を歪める。間違ってた?そうは思ったけれど、一度したことは時間が戻らない限りはなくならない。時間は戻らない。だからそのまま進むしかない。
「食おっか。座んなよ」
「うん」
いつもと同じ位置で、向かい合って座るのが酷く昔のことに感じた。たった二日なのに、何日にも何十日にも、とにかく長く感じた。お前が居ないと生きていけない、三井さんはそう言った。何故だか今、それを思い出した。
「味噌汁」
「え?」
「食いたいと思ってた」
「そう、なら良かった」
短い会話を交わした後は、互いに無言になった。箸と丼の当たる音、テーブルに食器を置く音、時々汁を啜る音、それしか聞こえないこの部屋は、酷く静かだ。この人が喋らないと、この人が居ないと、ここはだだっ広過ぎる。
「三井さん」
「ん?」
「あんたが居ないと静かでさ。部屋は広いし、俺には合わねえんだよ」
「オレが居ない時なんてしょっちゅうあったろ?」
「それは遠征の話だろ?そういうんじゃなくて、居ないと、困る」
そう言うと三井さんは、音がするほど勢いよく顔を上げ、まじまじと俺を見る。今度は俺の方がばつが悪くなって、頭を掻いた。言葉が思い浮かばなくて厄介だった。行動で示せと言われたなら簡単なのに。飯なんてすっ飛ばして、目の前のこの人を抱き締めてキスをして、それで済むならそうするのに。でもきっと、この人が欲しいものはそれじゃない。
「オレは」
言葉の浮かばないオレに痺れを切らしたのか、先に声を出したのは三井さんだった。彼は俯いていて、ぼそりと声を出す。
「うん、何?」
静かに答えると、ようやく顔を上げる。
「お前の特別が欲しい。ずっと前からそうだった」
言葉に詰まって、唾をごくりと飲み込んだ。どうしたものかと必死に言葉を探した。この人はどうして、こんなにも素直に紡ぐことが出来るんだろう。俺にはそれがどうしても出来なくて、また探した。噛み砕いて飲み込むだけで、そこからは何も生まれない。そんなくだらない男にこの人は、特別が欲しいと言う。この世で誰が、他人の誰かが、自分の特別が欲しいと言ってくれるのだろうか。この人は現実主義者だ。だから何もかも捨てて俺と未来を歩くなんて、そんな度胸はないと思っていた。だから世間に返すことが幸せなんだと。でもそうじゃない。覚悟を決めろ、そう思った。
「おい、何か言えよ。オレが世紀の大告白してんだからよ」
「ああごめん、なかなか言葉が見付からなくて」
「オレは振られる為に呼ばれたんじゃねえだろうな」
「は?!どこからその発想?!」
思わず吹き出すと、彼も少しだけ笑った。とりあえず食おうよ、そう言うとまた、互いに食べることを始める。二日間どこ居たの?と聞くと、菅田ん家、と彼は端的に答えた。迷惑掛けたんじゃない?あんたわがままだから、と言うと、三井さんは舌打ちをした。掛けたんだな、と、それで納得した。後は明日は東京だから遠征じゃない、という話を彼はする。知ってるよ、と返すと、少しだけ驚いた表情を見せた。
食べ終えて、ご馳走さま、と手を合わせた。三井さんも少しして、同じように手を合わせる。互いにシンクに食器を下げて、俺が向かったのはベランダではなく寝室だった。目で追われているのは知っていたけれど、放っておいた。寝室のクローゼットを開けて、紙袋を取り出す。それを持ってまたリビングに戻った。三井さんは椅子から立ち上がっていた所で、それを遮るようにテーブルに紙袋を置いた。
「何これ」
「あげる」
「え?」
彼はぎょっとしたように俺を見た。それは何故か、紙袋の中身の正体を三井さんはきっと、袋を見ただけで分かったからだ。
「何で」
「俺はね、口下手だし思ってることも飲み込む癖があって」
「うん」
「好きって言葉以外でどうやって伝えていいのか分かんねえんだよ」
「うん」
息を吸った。吐いた。それが嫌に自分の耳に届いた。
「あんたは普通の、こんな男と一緒に居るより普通の道に戻った方が幸せなんだってずっと思ってたんだけど」
「オレの幸せはオレが決める」
「だよな、あんたはそう言うと思ってたから言わなかった」
いや違うか、そうじゃない。小さく言うと、三井さんはもう一度、何、と聞いた。
「じゃなくて、何だ。あー……、そう。先延ばしにしようって、明日まで待とうってずっと。俺が手離したくなかったから。ごめん、上手く言えねえや」
そう言うと彼は、かぶりを振った。伝わったかどうかは分からない。けれども、続けようと思った。一向に紙袋を開けようとしないから、開けるよ、と一言断ってそれを開ける。箱を取り出してそれも開け、中身を取り出した。三井さんの左手を掴んで、まずはいつも付けている物を一旦外す。一度手を離し、取り出した物を手首に巻いた。
「束縛も趣味じゃねえし、縛り付けるのも自由を奪うみたいで得意じゃないからさ、これで勘弁して。後はもう、努力します」
自ら言った言葉に苦笑した。努力って何、そう思った。どんだけ口下手なんだと笑えてきた。三井さんはというと、口を噤んで何も言えないようで、手首に巻かれた物をじっと見ている。
「こういう残る物って責任持てなくてさ、今までくだらねえことしか出来なくてごめんな」
「これ、いつ買ったんだよ」
「今日。さっさと仕事終わらせて横浜まで行って来た。時計なんて時間を計るものだから馬鹿げてるって思ったんだけど、束縛の代わりにはなるだろ?」
「高かったんじゃねーの?」
「あんたと違って俺は無駄遣いしないからね、貯め込んでんの」
揶揄するように言うと、彼はまたばつが悪そうに目を伏せる。それから軽く、左手首に触れた。三井さんに買った物は腕時計だった。以前彼の時計を修理に出したあの店で、今日の今日購入した物だった。
「だからもう、出て行くなんてやめろよ。相当堪えたんだって」
三井さんは、左手首をじっと見ている。彼がいつも仕事で着けているのは、黒の革バンドにシンプルな文字盤の物だった。俺が買ったのは同じメーカーの茶色の革バンドにブルーの文字盤のタイプだ。自分でも驚いたけれど、これがぱっと目に付いた。あの人にはこれが似合うと、直感で選んだ。
「お前は」
「ん?」
「覚悟決めろ。お前は誰とも結婚しない。オレと居るって決めろ」
どこかで聞いた台詞だと思ったら、俺が三井さんに言ったものだった。ふっと笑うと、彼も笑う。
「肝に命じておきます」
「その言葉忘れんなよ」
返事をする代わりに、三井さんの頭を寄せてキスをした。どうしようかと思ったけれど、そのまま抱くことにした。本当は次の日ゲームがある日はしないし、体に負担は掛けたくなかった。けれど、三井さんは自分から舌を絡めて来る。乗り気なんだと分かって、服の中に手を入れた。すると彼はどういうことか、風呂入ってない、と言った。そんなこと気にする人だったっけ?と聞けば無視をされる。次は、電気消せ、と来た。ぎょっとして、そんなこと気にする人だったっけ?とまた同じことを聞くと、うるせえな!とキレられた。意味分からん、とは思ったけれど、臍を曲げられても困るので、寝室に連れて行って電気を消した。押すようにしてベッドに倒し、好きにさせて、と耳の辺りで呟いた。すると今度は黙って俺の首に腕を回した。もうどうでもいいと思った。明日のゲームのことも未来も、この人が側に居るなら何でもいいと思った。将来が不安なら、その不安さえつまらないことだと思う。
三井さんは珍しく声を上げなかった。どうしたの、と聞いても息を押し殺すように吐くばかりだった。そうすると余計に鳴かせたくなって、彼の好きな場所ばかり触れた。突いた。動かして抉ると、観念したのか鳴いた。普段ならこんなことしない。明日のことを考えて抑えていた。寧ろセックス自体しなかった。自分本位のセックスをするのもきっと、この人と初めて行為に及んだ時以来かもしれない。時折三井さんを見ると、酷く気持ち良さそうで、満足そうに見えた。回される腕から感じる時計のバンドが、背中に当たって冷たいと思った。けれどもそれは、心地良い冷たさだった。好きという言葉以外でそれが伝わる行動が、これで正解ならいいと思う。世の中に、返さなくてもいい借り物があるなんて知らなかった。この人にとっての俺も、そうであればいいのに。




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