幸福の咎

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「オレだったら好きでもない相手と一緒に生活するなんて無理だね。しかもお前だろ?まず有り得ねえよ。一億積まれてもぜってえ無理。早く出て行け鬱陶しい」
「オレだってごめんだよ!」
「まあそれは置いたとしても、人ってそう簡単に変われるもんじゃねえだろ?それが例え色恋沙汰だとしても。変われるくらい相手を好きだっていうなら十分なんじゃねえかって思うけどねオレは」
綺麗事だ。そう思った。けれども言わなかった。言わなかったのは、その綺麗事に縋りたかったからだと思う。今は、好きなだけで十分とは思えないからだ。だってそうだろ?両親のことや普通である自分さえ全て放り投げてしまえるくらい特別な何かが欲しいのに、何をどうしたらそれが得られるのか分からない。思い出せるくらい少し前の自分は、何故満足していたのかさえ。欲深い。所詮二人は二人だ。一人じゃない。
自分が変われるくらい好きならそれで十分、これが正解なら、決して変わらない水戸はどうなのだろうか。それとも変わってる?よく分からない。水戸の表情は分厚くて、オレにはその向こう側が見えないからだ。
「ああそうか」
「今度は何だよ」
「それじゃあ済まないから厄介なのか。参ったね」
「参ってんだよ」
「はは、まあ頑張れ」
菅田はもう、何も言わなかった。オレも言わなかった。ビールを飲む音と、がりがりとスナック菓子を食べる音だけが室内に響いていた。それから少しだけバスケの話をした。その最中もどこか所在無くて、体の一部が自分ではないようだった。意識はそこにあるのに、体は別の場所にあるような、とにかく妙だった。覚束ない。変な感じだ。オレは今、匂いが違う場所が違う家主が違う、ここに居る。
水戸、今日はちゃんと眠れてる?
その日の夜、夢を見た。酷く意識がはっきりしていて、ひたすら歩いていたのだけれど、その足の感覚もしっかりしていた。踏み締めている、土を蹴っている、そういう現実の感覚だった。隣には水戸が居て、お前昨夜はちゃんと寝たの?と聞いた。水戸はなにも言わず、オレを見上げて薄く笑った。歩いていて最初に見付けたのは湘北高校だった。次は水戸が昔住んでいた市営アパートを通り、海辺を歩いた。久々だな、と水戸に言うと、また彼は笑った。声は聞こえない。歩きながら、喧嘩をしたことなど忘れたみたいにオレは自分の話ばかりした。海を通って鎌倉を歩いて、次に辿り着いたのは今住んでいるマンションだった。その部屋はがらんどうのように何も無くて、ぎょっとした。何もない。買った家具も住んでいた痕跡も何も無くて、真っ暗だった。それでも、あの部屋だということは分かる。二階の角部屋、ベランダが広くて水戸がいつも煙草を吸うその場所、でも海は見えない。同じ部屋で眠って同じ場所で飯を食う、その場所。同じ部屋なのに違う。その時、足元がぐらついた。揺れて足が立たなくなりそうで、思わず水戸の腕を掴もうとした。けれど、掴んだそれは水戸の腕でも水戸自身でもなくて、ロープのような紐だった。何これ、そう思った。思わず下を見ると、今にも崩れそうな脆い木材があった。底は見えない。深くて暗くて、動いたら木が崩れて落ちそうだ。何だ吊り橋?進もうにも足が動かない。今まで居た筈の水戸も居ない。あの部屋でオレは一人で、一人きりで吊り橋に変わったそこに一人で居る。進まないと。そう思っているのに足が震えて動かない。先が見えない。終わりが見えない。どうしよう、どうしたら。
「じゃあ戻る?出会う前に」
振り返るとそこには、酷く冷えた目をした水戸が立っていた。ガラス玉のように色のない、何も期待していない瞳。どこも見ていない、オレのことさえ。あ、と声を出そうと口を開いた。けれど、その中に空気が入るだけで声は出ない。嫌だ、そう言いたかった。言おうと思った。かぶりを振るだけでも良かった。示すだけで良かった。嫌だ。もう一度思う。それでも声が出ない。表現するだけでいい。止まっていたって分からない。そうじゃなければ、水戸が行ってしまう。出会う前に戻るのが嫌なんじゃない。水戸のその目が嫌なんだ。拒絶するでも否定するでもない、そうじゃなくてオレに無関心で興味がない、そんな目は嫌だ。そんなん嫌いだって言われた方がマシだろ?だったら戻る。戻ってやり直す。だってどうせ、出会う前に戻った所でもう一度恋に落ちるのは目に見えてる。
目を開けた。目覚めた先に見えたのは見知らぬ天井だった。起き上がり、辺りを見渡した。夢だ、胸を撫で下ろし、深々と息を吐いた。
「いつまで寝てんだよ。ヘッドコーチって暇なの?」
その声にぎょっとして声がする方向を見た。菅田だった。彼は既に朝食を摂っている。パンを齧り、時々コーヒーを啜っていた。そうだ、菅田のアパートに泊まったんだ。脇に置いておいた携帯を見た。着信も無ければメールもない。じゃあ戻る?そう言った水戸の目を思い出して、そのまま項垂れた。頼むから無関心にならないで、そんな女々しいことを考える自分が嫌になる。
「味噌汁……」
「は?」
「味噌汁飲みたい」
水戸の味噌汁が飲みたい。無性にそう思った。
「コンビニ行けば?オレ朝はパン派だからインスタントもねえし」
「作れ」
「はあ?!朝から腹立つな!お前もしかして洋平にもそんなこと言ってんじゃねえの?だから嫌われんだよバーカ」
最後の方かなり小馬鹿にされたことは間違いないと分かってはいるものの、返す言葉も気力も見つからず、掛け布団に頭を預けたまま唸った。しばらくの間そのままでいて、どうにもならないと起き上がる。洗面所で顔を洗って歯を磨き、昨日着ていたスーツに着替えた。
「一旦帰る」
「一旦って何?」
「多分また来るから泊めろ」
「お前さあ、いい加減話し合えよ。オレんとこ居たってどうにもなんねえだろ?」
「分かってるよ」
「悪いけどオレ、お前の全面的な味方じゃねえからな。こういうのはお互い様だろ?洋平も悪いんだろうけどお前もわりーんだよ、な?それくらい分かるだろ。もう学生じゃねえんだからよ」
「あーあーあーうるせ!じゃあな!」
泊まった礼もろくに言わず、アパートを出た。朝だからか外気は低く、纏わり付く空気が硬い。一層冷たく感じた。駅までの道を歩きながら、わざとらしく息を吐く。その白さに、当て付けのように一人を思い知らされた気がして余計にうんざりする。ここの所休みがなかったから、ここぞとばかりに午前中だけ代休を取った。午後の練習に間に合えばいいからだ。空を見上げると、雲がない。嫌味なほど晴れている。水戸は今頃仕事中だろう。同じ空の下に居るのに、酷く遠い。一度立ち止まり、空を仰いだ。何故だか更に思い知る。
人が変わることは、世界がひっくり返るより余程難しい。そんな気がした。




マンションに戻ると、当たり前に水戸は居なかった。室内は閑散としていて、リビングの大きな窓から光が入っている。静かだった。ただ静かで、オレがここに居ても居なくても、時間は過ぎることを知った。昨夜投げ付けた物は床にはなくて、いつも通り綺麗に片付いていた。キッチンに洗い物は残っていないし、洗濯物も干してある。水戸は今もここで、オレが居なくても生活している。この部屋は夢の中のようにがらんどうでもないし、真っ暗でもない。いつも通りのままだ。過ぎて行く。今日もいつも通りに。
背筋が騒ついた。目線を彷徨かせると、ローテーブルの上に腕時計が置いてあるのが見えた。仕事用に買った、就職して初めてのボーナスで買ったそれは、去年修理してから調子良く動いている。近付いて手に取ると、秒針は普通に動いていた。戻らない。時間は戻らない。
じゃあ戻る?出会う前に。
戻る訳ねえだろ。戻んねえよ腹立つな。急に苛ついて腕時計を手首に巻いた。寝室に入り、クローゼットを開けた。遠征用のキャリーケースを取り出してパッキングをした。今週のゲームは東京だから本来なら泊まりの仕事じゃない。頭の中が真っ白という以前の問題だった。絡まって解けなくて、頭を冷やすというよりも沸点を超えていた。戻ることなんて出来ないくせに人任せに戻るかどうかなんて聞くな。お前はどうなんだよ戻りてえのかよくそったれ。口から漏れないように歯を食い縛って咀嚼して飲み込んだ。
適当に詰め込んだ荷物を持って立ち上がる。別にずっと帰らない訳じゃない。でも自分から折れるのはどうにも釈然としない。水戸はオレを縛り付けないし、放っておけば消えてしまいそうだった。あいつはどこにも属さないし、手を繋いでいたつもりでもするりと抜けて行く。分かっている。ただそれしか分からないからもう、もういいと思った。頭を冷やそうにもどこを冷やせばいいかが分からないから、今日もきっと帰らない。
その日の夜も、連絡はなかった。オレもしなかった。菅田のアパートにまた戻ると、何の用?と言われたものの、追い出されることはなかった。文句を言われながらも結局その日も泊まり、朝になればキャリーケースを持って職場に行った。かっこ悪過ぎる、だからそろそろ帰ろう、今日は帰ろう、そう思っているのに携帯が鳴らない。業務連絡が届かない。水戸が早く帰れるのか遅くなるのかそれも分からない。まだ二日、もう二日。時間の感覚が分からなくなって来る。手首にある時計を見ても、刻まれる秒針は遅くもならないし早くもならない。淡々と一定に進む。これが現実。これを見ている時だけオレは時間の感覚が分かる。悪寒が走る。急に背筋が凍るように冷える。もうこの携帯は鳴らないんじゃないか。業務連絡どころか水戸洋平の文字が出ることすらしないんじゃないか。大学生の頃のように、あのまま消えるんじゃないか。嫌だ怖い。練習を終えて、お疲れさん、と素知らぬ顔で選手達に声を掛けながら、頭の中では別のことを考えている。
足早に事務所に戻って携帯を取り出した。時間は午後八時。もういい、水戸の飯が食いたい。もう嫌だ。そう思った。その時だった。持っていた携帯から音が鳴る。ぎょっとして落としてしまいそうになった。ディスプレイに書いてある名前を見て唾を飲んだ。どうする、そう思った。けれどもう、答えは決まっている。
「もしもし」
『俺です』
「うん」
『どこに居るの?』
「え、あ、職場」
『仕事終わった?』
「終わった、けど」
『じゃあ帰って来なよ。メシ、出来てるから』
腕時計を見た。時間は午後八時を回った所だった。秒針は未だに進んでいる。一定に。戻ることなく。
「帰る。今から帰る」
『気を付けろよ、待ってるから』
うん、そう言って携帯を切った。水戸の声はいつも通り静かで抑揚がなかった。淡々としていて一定で、同じ温度だ。でもそれは、優しかった。酷く優しくて、それは菅田の言葉を思い出させた。
「オレだったら好きでもない相手と生活するなんて無理だね」
オレもそう思うよ。深く息を吸って吐いて、よし、と小さく言った。かっこ悪いキャリーケースを引いて、早歩きで歩き出した。歩きながら携帯から菅田の名前を出してそれに掛ける。すると彼はすぐに出た。
「オレ。今日は家に帰る」
『そりゃ良かった。今日も来たらさすがに追い返そうと思ってたから』
「悪かったな」
『言わせて貰うけど、人なんて誰も自分の思い通りに生きたりしねえんだよ。大体、ホモでもゲイでもない奴が好きでもない男と暮らすか?それにオレ、洋平がお前を嫌いにはなるとは思えねえんだけど。どうしても』
「何で?」
『さあ、何となく。あの顔見ちゃったから?』
「何それ」
『はは、秘密。じゃあな』
すぐに切られたそれは、謎めいた言葉を頭に残す。まあいいや、早く帰ろう。オレは子供みたいに早足で歩いた。がらがらと鳴るキャリーケースが、酷くうるさい。





9へ続く


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