幸福の咎

□7
2ページ/2ページ


その日の夕方、事務所で残務処理をしていた時だった。お疲れ様でした、と言った遥さんが、やけに俺を見ている。
「何ですか?」
「水戸さん、ここどうしたんですか?」
彼女はそう言って、自分のこめかみを人差し指で突いた。
「ああ、ぶつけたんです」
「そういえば、頬もちょっと赤いですよ?」
冷やしたんだけどな、とは思ったけれど、誤魔化すように首を捻るだけにした。だからなぁ、この女は苦手だ。
「あ、分かった喧嘩だ。好きな人に殴られて何か硬い物でも投げられたんじゃないですか?もしかして振られちゃった?」
ビンゴだよ。とも思ったけれど、適当に聞き流す方が賢明だ。パソコンに目を戻して早く仕事を再開する、それが先だった。それなのに俺は首を捻って、事務所の自席から後ろの整備工場を見た。二人の先輩も二人の後輩も、今はまだ車の整備をしている。仕事仕事、仕事が今は最優先。
「うるせえなあ」
出ていた言葉は全く違うもので自分自身に驚いた。彼女も目を見開いている。
「だったら何?」
思った以上に声も低く、前に居る人が同僚だとか女性だとか、そんなものは一切気にしていない自分にも驚いていた。頭の中ではストップを掛けていた。でも今は口の中でいつもは噛み砕く言葉をそのまま喋っている気がする。だからこの女は苦手なんだって。
「はは、余裕ないのね」
「ねえよ」
「水戸さんって、意外と普通なんだ」
「あんたは俺を何だと思ってんの?」
「何ていうのかな、掴み所ないし陽炎みたいに消えちゃいそうっていうか」
「はっ、何それ」
「好きな人の前ではあなた、普通の男なのね。つまんないの」
お疲れ様でした。そう言うと彼女は、事務所を去った。言い逃げかよ、舌打ちをしてすぐに戻った。深く深呼吸する。やるべきことを終わらせなければ、あそこには帰れない。
連絡も出来ないまま帰宅すると、玄関に三井さんの靴はなかった。まだなのかそれとも帰る気がないのか。もしかして振られちゃった?夕方の言葉が頭に浮かび、息を吐いた。洗面所で手を洗ってからリビングのドアを開ける。思った以上にそこは冷え冷えとしていて、リビングは暗さが一層強調されたように見えた。照明のスイッチを入れてから、冷えた部屋を暖める為にエアコンを点けた。
「ただいま」
言った所で返答がないのは知っていた。それなのになぜ。煙草を吸おうと鞄から箱を取り出した所で気付いた。ローテーブルに置いていた三井さんの時計が消えていた。何で?寝室に入り、クローゼットを開けた。いつも彼が遠征の時に使うキャリーケースがなかった。一度帰宅して、また出て行ったことを知る。
お前はオレを好きじゃない。昨夜三井さんが言った言葉を思い出した。その表情もよく覚えている。感情が全て顔に現れていて、美しいと思いながら見ていた。綺麗な顔だなぁ、なんて的外れにもそんなことを考えていた。俺には到底真似出来ないからだ。あんなに感情も言葉も全て剥き出しにして曝け出して怒りを露わにするやり方を、俺はきっとこの先ずっと真似出来ない。口下手だし、欠落してる部分なんて嫌という程知っているからだ。小さな頃から喋らなくて、言葉の使い方や表現の仕方なんて分からなかった。
だからあんたに、好きという言葉以外で何を伝えたらそれが伝わるのか俺には分かんねえんだよ。だってこの先どうすんのきっとあんたの両親は先の先を心配するし脚光を浴びてこの先も浴びて普通以上に普通の生活をしてきた人にろくでもない男と一緒に居る選択なんてさせらんねえだろ?これで好きじゃないって言われたら夏休みが終わりましたってそう言うしかねえよ。
頭で考えていることは、ずっとどこかにあった正論だった。けれどもその正論にはどこか釈然としなくて、それの理由が「お前はオレを好きじゃない」に至るなら、もうどうしたらいいものか分からない。だから無性に苛ついて、煙草の箱をフローリングに投げ付けた。軽い音が響いて、投げ付けられたキーケースの重さを一層感じた。こめかみが痒いと思った。酷く痒いと、そう思った。爪で強く擦ると瘡蓋が剥がれて指に付いている。辺りを見渡すと、ベッドがあった。二人で眠っていたベッドだった。開けっ放しのドアからは家具が見える。あの人が買った家具だった。もう一度クローゼットに目をやると、キャリーケースがない。どこを見ても見渡しても見当たらない。
どうしようこのまま消えたら。明日また一つ気配が消えてまた明日一つ気配が消えて最後何も無くなったら。
俯いた先には煙草の箱が転がっている。キーケースを投げ付けられた時、三井さんは言った。お前なんかにこんなもんやるんじゃなかった。そう言った。そうだね、そう思った。俺もそう思うよ、と。でも違う、そうじゃない。そのままベッドに寝転がると、まだあの人の匂いがする。これも消えたら、俺はもう呼吸の仕方すら分からないんじゃないか。
こめかみが痒かった。痒くて擦ると、剥げた瘡蓋からまた血が滲んでいる。
「いってえ」
今日はちゃんと飯食ってんの?それさえ聞けないまま、ここにいないあの人の気配を探した。匂いだけが残っている。





8へ続く


前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ